バッハ「トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565」は別人の作品?
J.S.バッハの代表曲の一つに、「バッハ「トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565」があります。あの、「ちゃららー、ちゃららららーらー」という出だしのパッセージが有名な曲です。
この「代表曲」である「トッカータ」、実は「本当にバッハなのか?」という疑問が1833年初出版の時から呈されている曲でもあります。理由はいくつかあります。
- この作品はバッハの自筆譜が現存せず、もっとも古い写譜も18世紀後半のもので、そのため成立事情が不明瞭
- フーガの書法が異例であること。特に主題が単独で提示されるオルガンフーガ、および短調の変終止で終わるオルガンフーガはバッハの全生涯を通じて他に例がない
- フーガの対位法が薄い
- 動機主題作業を行っている(←これはJ.S.バッハの次の世代の音楽であることを示唆)
- J.S.Bachの時代のオルガンには珍しいC#が必要になって当時の一般的なオルガンでは演奏不能。
- etc.
そんなわけで、これはバッハの真作ではないのではないかと言われているのです。代表的な説には
- ペーター・ケルナー(1705年 – 1772年)作説(Claus, 1998)1、
- バッハの弟子であるコルネリウス・ハインリヒ・ドレッツェル (1697-1775)作説(Hall, 2013) 2、あるいは
- バッハの次男であるC.P.E.バッハ(1714年 – 1788年)作説 (Gaiilit, 2022) 3
などがあります。
ケルナー(Johann Peter Kellner)説
ヨハン・ペーター・ケルナーは北ドイツで活躍したオルガニスト・作曲家で、J.S.バッハをよく知る人物でした。弟子であった可能性もありますが定かではありません。確かなのは、J.S.バッハの作品を広げるのに非常に貢献した人物であったということです。特に、現在私達がバッハの6曲のチェロ・ソナタに接することができるのは彼の貢献が大きいとされます。
ケルナー説は、この曲の最初の写本が彼の弟子Johannes Ringk によるものというところから来ているようです。しかし、作曲様式比較の面からも、写本の筆跡鑑定の観点からJohannes Ringkによるものではないという点4からも、現在は否定的意見が多いです。でも、一応、ケルナーの曲も聞いておきましょうか。
ドレッツェル(Cornelius Heinrich Dretzel)説
コルネリウス・ハインリヒ・ドレッツェルは、南ドイツ地方で活躍したオルガニスト・作曲家で、J.S.バッハの弟子です。活躍した地方の特性上、作曲様式はイタリアの影響が顕著とされます。
やはりバッハの作とされていたBWV 897の前奏曲の真作者とわかっていて、バッハ作とされているもので、作曲技法的に違和感があるものの場合、真っ先に上がる作曲家です。音楽学者ジョナサン・ホールは、2013年のThe Diapason5 での論文(Hall, 2013)で、ドレッツェルの鍵盤作品(特に《ディヴェルティメント・アルモニコ》)とBWV 565の間に「非常に高い様式的一致」を指摘しています。まぁ、聞いてみてください。確かに似てますね。
どころで、ドレッツェルってほとんど曲が伝わってなくて、IMSLP(国際楽譜図書館事業)でもこれ1曲しか出てこないし、Naxos Music Library でも出てこないんですよね。惜しいことです。
C.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach) 説
さらに、バッハの人気のある作品(シチリアーノ BWV 1031、とかBWV 1020 など)の真作者とされるJ.S.バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ (C.P.E. Bach) も同様に候補に上がっています。
C.P.E.バッハ説は音楽誌 The DiapazonでMichael Gailitによって2022年に発表された比較的新しい説で、以下のようなことをその理由としてあげています。
- 「J.S.バッハの他の鍵盤曲とBWV565の間の楽譜の見た目にはほとんど共通点がないが、C.P.E.バッハの鍵盤曲との間にはいくらでも見つけられる」(筆者注:実際そう思う)、
- 「BWV565は動機主題作業6を行っている」(これは、Gailit(2022)での新発見だそうです)、
- 「C.P.E.バッハは自分の楽譜を大量に廃棄しているので、彼のカタログに乗っていない作品があっても自然」、
- 1755年と1776年にC.P.E.バッハが仕えていたフリードリヒ2世の末妹アンナ・アマリア王女が依頼した2台のオルガンは、全手鍵盤とペダルにフルコンパスを備えていて7、この曲をそのまま演奏可能、
といったような点が挙げられています。ちょっと聞いてみましょう。彼のオルガンのためのファンタジーとフーガハ短調 Wq 119/7 です。
しかし、いずれも決定打になるような証拠はありません。ただ言えそうなのは、オルガン曲だとすれば、おそらくJ.S.バッハの次の世代の曲ではないかということでしょうか。ちなみに、個人的には Dretzel っぽいなぁと思います。
BWV 565はバイオリン曲?!
一方、「いや、J.S.Bachだ」という声ももちろんあって、その中には「対位法的書法が薄いのは、もとはバイオリンなど弦楽器用の作品だったからだ」という声もあります。わたしがこの曲がもとは弦楽器曲ではないかという論に初めて接したのは2022年のことでした。
この説は、音楽学者ピーター・ウィリアムズの1981年の論文(Williams, 1981)8(ただし、ウィリアムズ自身はJ.S.バッハ作ではないという立場)やブルース・フォックス-レフリッシュの論文(Fox-Lefrish, 2004)9などによって「楽曲構成や音型・パッセージワークに、オルガン曲としては異例で、ヴァイオリン曲としてより自然である部分が多い」として唱えられる説です。フーガの書法が薄いのもバイオリンソロのためであれば納得できます。主なヴァイオリン的特徴としては以下のような点が挙げられます。
主なヴァイオリン的特徴
- アルペジオや単一音型の多用
曲冒頭や各節でみられる分散和音(アルペジオ的パッセージ)は、バロック期のヴァイオリン独奏曲でよく使われた技法です。オルガンで演奏すると音響が重厚に響きますが、ヴァイオリン用だと和音を素早く分散して響かせる技巧的要求として自然です。 - 広い音域移動と単音の流れ
ヴァイオリン奏者のポジション移動による音域の広がりや、連続的な単音(レガートなラインや速いパッセージ)は、オルガンよりも弦楽器独奏曲に適しています。 - 重音の活用と和声処理の薄さ
三度・六度などの重音進行や、部分的に薄い和声が目立つ点も、ヴァイオリン作品に特徴的です。オルガンでは和声を厚く補うのが一般的ですが、BWV 565には意図的に「間」を感じさせる部分が多いとされています。 - バリオラージュ奏法的モチーフ(開放弦と指弦の交錯)
フーガ主題をはじめ、バリオラージュ(ヴァイオリンで開放弦と他の弦を交互に素早く演奏する手法)的パターンが随所に現れます。これは鍵盤よりむしろ弦楽器で技巧的・効果的な処理。
実際にバイオリンで弾いたバージョンもあります。なるほどなー、と思わせるところはあります。というわけで、お聞きください。バイオリンソロ版トッカータとフーガ。
バイオリンソロ版トッカータとフーガ
謝辞
なお、この記事は、うちでやっている「十三音会」の常連でもある、yamauchi_toru さんの note の記事「音楽家と歴史・社会 -42: J.S. バッハの真作・贋作論争を巡って」に触発されて書きました。このような機会を作っていただいたことに篤く御礼申し上げます。
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脚注
- Claus, Rolf-Dietrich. 1998. Zur Echtheit von Toccata und Fuge d-moll BWV 565. Verlag Dohr, 2nd ed. Cologne. ISBN 3-925366-37-7.
- Hall, Jonathan B. 2013. BWV 565: Composer Found?. The Diapason. https://www.thediapason.com/content/bwv-565-composer-found. (2025-07-19取得)
- Gailit, Michael. 2022. Exploring the unknown of BWV 565, Part 6. The Diapason. https://www.thediapason.com/content/exploring-unknown-bwv-565-part-6 (2025-07-19取得)
- Gailit, Michael. 2022. Exploring the unknown of BWV 565, Part 5. The Diapazon. September 2022 issue, pp 19–21 https://www.thediapason.com/content/exploring-unknown-bwv-565-part-5 (2025-007-19取得)
- オルガンを含む鍵盤楽器音楽に特化した、100年以上の歴史を持つ国際的学術誌
- 動機主題作業=主題を動機分解して展開して音楽を構築する方法。C.P.E.バッハがおそらく最初に行っている
- 当時の音域内の全半音を演奏できるということ
- Williams, Peter. 1981. BWV 565: A Toccata in D Minor for Organ by J. S. Bach?. Early Music (July 1981), pp330–337.
- Fox-Lefriche, Bruce. 2004. The Greatest Violin Sonata that J. S. Bach Never Wrote,” Strings (October 2004), pp44–55.