アイデンティティをやっているなら読むべき本〜『メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』

まずはじめにアイデンティティ業界の人へ

とりあえず、アイデンティティに関心のある人は、本書『メタバース進化論』を読んだほうが良い。メタバース・バ美肉として現実の物理的制限から存在を解き放ち、抽象空間で取り扱うことができるようになることによって、アイデンティティとプライバシー管理の課題や要件がこんなにも明確になるのか!曰く

  • そもそも「アイデンティティ(自己同一性)とは、私たちが私たち自身をどのようなものと捉えるかという「認識」であり、他者や社会からそれが認められているという「感覚」のことです。
  • 物理現実では、基本的に生まれたままの名前・姿・声を受け入れるしかありませんでした。つまり、アイデンティティとは「与えられる」ものでした。
  • 基本的には与えられた固定のものを「受け入れる」しかなかった物理現実時代のそれとは違い、メタバース時代のアイデンティティは自由に「デザインする」ものになり、「なりたい自分」としての人生を送ることが可能になる
  • 人間を分割可能な「分人(Dividual)」として捉える
  • 複数のアイデンティティを「切り替える」ことで人生を自由にデザインできる
  • プラトンの「イデア論」〜見ている現実世界は、実体ではなく、イデアの影にすぎないのだ
  • アイデンティティを自在にデザインして「なりたい自分」になれるメタバース

(出所)『メタバース進化論』

わたしの本1やブログ、講演などに接しているかたは、「はいはいアレね」と思うだろう。次の図は、2011年6月に書いた「非技術者のためのデジタル・アイデンティティ入門」の頃から使いまわしている図だが、ほとんど同様のことを言っている。分人 v.s. Identity (Partial Identity) など使っている言葉は違えど殆どマッピングできる。

ただ、多分、本書のほうが100倍わかりやすい。これは、この図では自己像と言って抽象的に扱っているものにアバターという実体を与えて手触り感を持たせているのと同時に、何でもかんでも「属性」という分類でくくってしまわずに、「言霊世界」「視覚世界」「音響世界」のようにカテゴライズして説明しているからだろう。もちろん単純な筆力の違いもあるが。

【図表1】自己像(アイデンティティ)と幸福追求

とりわけ重要なのが、魂の自由性とか、アイデンティティは他者から与えられるものではなく自分で確立するものだというところだ。このあたり、「アイデンティティの専門家」でも忘れている人達が多い。神だとか政府だとかに与えてもらいそれを受容するものだという中世的な考え方の人たちが多いのだ。

中世的アイデンティティ v.s. 近代的アイデンティティ

近代的な個人観と中世的な個人観の主な違いは以下のようにまとめらるだろう。

中世的個人観

  • 個人は共同体の一部として存在し、共同体からの役割や地位によって定義されていた。2
  • キリスト教の影響で、個人は神との関係性において「世俗外個人」として捉えられていた。3 4
  • 個人の内面性よりも、共同体への所属と役割が重視されていた。5

近代的個人観

  • 個人は自律的な存在として捉えられ、個人の内面性や自我意識が重視されるようになった。67
  • 啓蒙主義の影響で、個人は中世的な共同体からの拘束から解放され、「内面的孤独」を経験するようになった。8
  • 個人の権利や自由が強調され、個人主義的価値観が台頭した。910
  • プライバシーの概念が生まれ、私的領域が神聖視されるようになった。11

つまり、中世では個人は共同体の一部として捉えられていたのに対し、近代では個人の自律性と内面性が強調され、個人主義的価値観が確立されたということができる。魂の自由性と言っても良い。でも残念ながら、この個人主義的価値観・近代的個人観に行き着いていない人が結構多い。だから、アバターは現実世界の自分に似ていなければならないだとか、アイデンティティウォレットには政府発行の個人属性証明(PID)を入れて、それを中心に回していくとかの考えになってくる。

これは別にウォレットに限ったことではなくて、Web 2.0的なSNSにおける本人確認でも似たようなことが起きてくる。先ほど経験したことだと、LinkedInで本人確認済みにするには、氏名はパスポート表記と同一でなければならないという。パスポート表記などというのは、国境を超えるときの識別子として政府に登録されたものであって、自分を表出するものではない。わたしは英語では Nat Sakimura として活動しているが、それが「本人確認」をすると、Natsuhiko Sakimuraであることを強制される。なんだそれは。そんなことしたら過去の業績とのリンクができなくなるではないか。いやそんな些細なことではない。名乗りを奪うということは、人格を否定することに等しい。ちょうど千と千尋の神隠しの湯婆婆が千尋の名前を奪うように。

まさに、本書がいうように、名前は「言霊世界のアイデンティティ」なのだ。この「名乗りの自由性」はとても大切だ。なぜならば、本書が言うように『周りの方々からこの「言霊」で毎日繰り返し呼びかけられ続けることで、わたしは◯◯としての自己認識を獲得することができる』からだ。

また、言うまでもなく「アバター:視覚世界のアイデンティティ」(本書)の自由性も重要だ。『自分自身の「アイデンティティ表現」としてみた時は現実のような「人間」のかたちに縛られたくない』(本書)からだ。それともあれだろうか。四肢が不自由だったら、メタバースでも四肢が不自由でなければいけないとでも言うのか。

その自由性の象徴がバ美肉である。日本では、人形浄瑠璃や歌舞伎の女形などの文化的背景がありだいぶ受容が進んできたが、西洋ではヘタをしたら56されかねない。バ美肉を受容できるかどうかは、潜在的な差別意識のあるなしのリトマス試験紙になる。

本書ではMetaが規制を入れてくる可能性に触れているが、AppleもVision Pro でやってきても驚かない。場合によっては、VRのアバタを簡単に作らさせるためにUXとしてそういうことにするといってくるかもしれない。だがこうした動きには徹底抗戦しなければなるまい。日本では、自己イメージコントロール権説や、「身だしなみなどに関する自己決定権」から、「なりたい自分になれる権利」は認められ、間接適用説からmetaなど事業者もこの権利の侵害は許されないはずだ12

こうしたアイデンティティに関する話は第4章にまとめられているので、時間がなかったらまずそこだけでも読んでほしいところだ。

プライバシーに関しても参考になる

また、アイデンティティと違って一つの章になっているわけではないが、プライバシーに関しても参考になる記述がいろいろとある。曰く、

  • 同じく日本の伝統芸能「人形浄瑠璃」でも、優美に踊る美しい女性の人形の背後には黒子のおじさんが見えてしまっています。しかし、それを指摘するのは野暮

これは、「データが見えてしまっても、意図された目的以外では使ってはいけない」というデータ保護の基本につながる。わたしが昔から「大人のプライバシー」と呼んでいるものだ。もちろん「なりたい自分になれる」というのが、「自己イメージコントロール権」13と表裏一体であるのは言うまでもなく。

ISOでは現在、メタバースのプライバシーについての検討が始まっているが、関係者にぜひ本書を読ませたいところだ。英語版がほしい。

もちろんメタバースの解説も

さて、自分がアイデンティティ&プライバシー業界の人間だから、いきなりそのあたりの各論に入ってしまったが、そもそも本書はメタバースについての本だ。「メタバースの定義:実現に必要な七要件」であるとか、4大ソーシャルVRの紹介であるとか、それらを支える技術であるとか、メタバースに住む住民たちの特性、なぜ人々はバ美肉になるのか、などなど、データの裏付けをとりながらきっちりと解説している。しかも、マーカーで線を引きたくなるようなキャッチーなフレーズが満載で。たとえばこんな感じ:

  • 声:音響世界のアイデンティティ
  • 自分の精神に作用するプロテウス効果
  • バ美肉は枯山水。見立ての文化の延長線。
  • (現在は)「永遠に新しいことを学び続けていく」ことが当然(の社会)。すべての人が永遠に「未熟」であることを受け入れざるを得ない社会において、「大人としての自尊心」に変わる新たな価値観こそが、お互いの「未熟さ」を愛おしいと思う価値観「かわいい」

(出所)『メタバース進化論』

わたしは、Kindleで大量に線を引きながら読んでしまった。上記はそのほんの一部だ。ぜひ本書を買って読んいただきたい。

動画による解説も一緒にみるとなお良し

なお、本書は文章による紹介としては大変優れているが、やはりメタバースのイメージを得るには映像のほうが適している。そういう意味で、筆者である「バーチャル美少女ねむ」さんが、国連のIGF 2023で行ったプレゼン「バーチャル美少女だけど国連登壇してみた」も並行して見ることをおすすめする。非常にわかりやすいプレゼンだ。英語ですが…。

これは、国連が主催するインターネット・ガバナンス・フォーラム(IGF14 )2023 京都のDay 0

の模様を録画したものだ。わたしもこの日だけは、自分のセッション15があったのでIGFの会場にいたのに、生参加できなくて残念だった。多分この時間はOECDの人とTrusted Data Intermeidaries (TDI: 信頼できるデータ仲介者) について話していたと思う。

というわけで

本書、本当におすすめだ。サンフランシスコからの機内で読んでいて、第4章を読んでいて涙が自然に流れ出てきたくらい。ぜひ買って読みましょう!

【変更履歴】

  • 2024-04-23 初版
  • 2024-04-24 中世的アイデンティティ v.s. 近代的アイデンティティを追加、敬体を常態に変更。

脚注

  1. 﨑村夏彦『デジタルアイデンティティ』日経BP (2021)
  2. 新矢 昌昭『近代 における孤独 の誕生』佛大社会学 第26号 (2001)
  3. 新矢 昌昭『近代 における孤独 の誕生』佛大社会学 第26号 (2001)
  4. 藤本龍児『アメリカにおける個人主義とニュー工イジ運動 一一現代宗教の問題と課題一一』現代社会学理論研究 (2007)
  5. 阿部謹也「西洋中世における個人(人格) の成立に関する予備的考察」一橋大学社会科学古典資料センター Study Report, 20 (1990)
  6. 新矢 昌昭『近代 における孤独 の誕生』佛大社会学 第26号 (2001)
  7. 藤本龍児『アメリカにおける個人主義とニュー工イジ運動 一一現代宗教の問題と課題一一』現代社会学理論研究 (2007)
  8. 藤本龍児『アメリカにおける個人主義とニュー工イジ運動 一一現代宗教の問題と課題一一』現代社会学理論研究 (2007)
  9. Wikipedia「個人主義
  10. 藤本龍児『アメリカにおける個人主義とニュー工イジ運動 一一現代宗教の問題と課題一一』現代社会学理論研究 (2007)
  11. Wikipedia「個人主義
  12. naka2656 https://twitter.com/so6287/status/1781800580421398972
  13. 「人間が自由に形成しうるとことの社会関係の多様性に応じて、多様な 自己イメージを使い分ける自由をプライヴァシーと呼ぶ」(自由な社会関係を前 提として、自己イメージのコントロール権) 出所:棟居快行『人権論の新構成』信山社(1992)187-195頁。
  14. Internet Governance Forum
  15. IGF 2023 Day 0 Event #42 “Trusted Personal Data Management Service(TPDMS)” Program

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