死者のプライバシーを通じて考える、言論の自由、個人情報保護、人権、尊厳、プライバシー

軽井沢バス事故1は、大変痛ましい事件であった。

この事件では、多くの報道機関が被害者の顔写真や交友関係などを報じてた。これに関して、プライバシー上の疑問を持つ方々も少なくないようである。たとえば、朝日新聞のこの記事2に対する、佐々木俊尚氏の記事3などがその代表だろう。

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[図1] 佐々木俊尚 Twitter.. https://twitter.com/sasakitoshinao/status/688556116226121728

この事故は、多くの人にとって、良きにつけ悪しきにつけ、プライバシーを考えなおすきっかけにもなったようだ。

死者のプライバシー 問題は、個人情報保護法の遵守とプライバシー保護の違いや、人権とプライバシーの間の溝を浮き立たせる良い話題ではある。同時に、今回のように被害者のエピソードなどがどんどん報道されていくような状況は、マスコミの言う「言論の自由」と「プライバシー」との関係を考えなおす良いきっかけにもなる。

「言論の自由」と「プライバシー」のせめぎ合い

このような事件がおきると、報道機関はこぞってあちこちから情報を取ってきて「報道」合戦が行われる。視聴率が取れるコンテンツだからということもあろう。しかし、その報道がプライバシーを侵害する可能性をどの程度報道機関は考えているのだろうか?言論の自由とか知る権利とかいうのであろうが、それは三権に対してのものでは無いのか?今回の件では、被害者は基本的に私人であろう。そのプライバシーをマスコミが侵害することを正当化できるような公益は何なのか?マスコミは考えたのか?見解を聞きたいところだ。

様々な権利は互いに干渉しあうことが多いわけで、様々なことを勘案してバランスをとらなければならない。報道目的であれば何でも許されることにはならないはずなのだが、「絶対権利」のように報道されることが多いので、そこは注意すべきと思っている。ちなみに、日本新聞協会の資料4によると、「動画投稿サイトやソーシャルメディアに掲載された動画、画像の利用について、投稿者の許諾が得られない場合でも報道利用であれば全面的に認められる」「ソーシャルメディアに投稿された顔写真についても同様に、報道目的であれば許諾なしで利用できる」(三村弁護士)とのことなので、案外溝は深い。ここは、しっかり議論しなければならない点だし、権利は弱い立場のものを守るように構成すべきとの考えからすれば、むしろ、「報道の自由」よりも「私人のプライバシーの権利」を優先すべきであるように思われるが、誰しも第四の権力を敵に回したくは無いので、ここに対して正論をもって対峙する人はなかなかいないのが大きな問題であるように思われる。

死者のプライバシーと人権

個人情報保護法で保護するのは、生存する個人に関する情報である。したがって、死者のデータは保護されない。だからといって、死者のデータが保護されなくて良いというわけではない。「死者のプライバシー」は、近年取り上げられるようになってきた問題だ。

死者のプライバシーはまず、「それはだれのためなのか」まで話が戻るので難しい5が、死者にも尊厳があるから、まず第一義的には本人であろう。だが、それを考えると、プライバシーを人権からだけ導き出すのは案外難しいということになる。なにしろ死者には人権が無い。『「権利」という枠組みよりもある種根源的な「尊重」すべき存在というものを定義しないといけない』6のかもしれない。

一方、その問題を避けて、擬似的に解決するという方法も考えられる。たとえば、死体損壊罪的モデルは、遺族の権利とか警察などの検証可能性を妨げないとかが法益らしいので、これに似せて、遺族の権利として解決しようとするわけだ。だが、そもそも遺族による侵害とかもありうるし、遺族がいない場合には、この方法は使えなくなってしまう。

わたしは、プライバシーの権利を、「自らがみてほしいように(自観)、他人からみてもらう(他観)ことによって、望む形の関係性を築くことにより、幸福を享受する権利」だと思っている([図2]参照)。当然、○○さんには、死んだ後も「こう観てほしい」というのはあるわけである。それが、死んだから個人情報は保護されないからと、何でも表に出すと、生前意図していた関係性が崩れることになる。

自観と他観とプライバシー
[図2] 自観と他観とプライバシー
それを見ていた第三者は、死んでしまうと、生前築いた関係性が崩れてしまうと気づき、不安を感じ、不幸せになる可能性はあると思われる。一つのチャレンジとしては、これを守るということを法益として、人権規定から #死者のプライバシー を引き出せないかというのはあるのではないか。

もう一つの方法としては、遺言がなぜ認められるのかということの類似から引き出すというのもあるかもしれない。法学者の先生方には、上記のような観点なども含めて、 #死者のプライバシー 問題を少し考えていただきたいなぁと思う。

心理学とプライバシー

死者にかかわらずのプライバシーという点では、心理学者の先生方に、ぜひとも「関係性」の維持の、人間の「幸福度」に対する影響などを教えていただきたい。私の考えるプライバシーは「関係性の維持」に強く関係すると上述したが、これの保護を人権規定から引き出すには、関係性の構築・維持と幸福の間の相関を明らかにしなければならないからだ。

日本でプライバシーの話をしようとすると、多くの場合は法律の話になる。だが、法律は、「なにか」を実現するための技術の1つである。まずは、守ろうとするものが何なのかを明らかにしなければならない。憲法13条の幸福追求権から個人情報保護なりプライバシー保護なりを引き出そうとするならば、個人情報の保護がなぜ幸福の追求に関係するのか、望んだ関係性の維持がなぜ幸福の追求に関係するのか、というようなことを明らかにしなければならない。これは、心理学の領域であろう。プライバシー論を深めるには、今よりもかなり学際的なアプローチが求められるような気がしている。

 

脚注

  1. 軽井沢スキーバス転落事故 
  2. 就職・進学・友達…大学生たちが夢見てたもの バス事故 http://www.asahi.com/articles/ASJ1J43P4J1JUTIL00N.html
  3. 佐々木俊尚 https://www.facebook.com/sasaki.toshinao/posts/10154029823812044
  4. 三村弁護士、報道と肖像権の問題を解説 報道資料研究会 http://www.pressnet.or.jp/news/headline/141127_4510.html
  5. 吉本明平 https://twitter.com/AKHYSH/status/688728385523027968
  6. 吉本明平 https://twitter.com/AKHYSH/status/688739394535034880

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