「最初に使うキー(長短の調)次第で、違った感情が生まれるという考えも間違いだ。」というのは間違いだ!

DIAMOND Online に、『「響きの科楽」著者ジョン・パウエル博士が明かすあなたの知らない音楽の秘密』という記事が出ていた。

その中で、「多くの作曲家が誤解していること」として、「最初に使うキー(長短の調)次第で、違った感情が生まれるという考えも間違いだ。」と主張している。曰く、

同様に、最初に使うキー(長短の調)次第で、違った感情が生まれるという考えも間違いだ。例えば、スティービー・ワンダーの曲で「I just called to say I love you」という歌詞を繰り返すところがあるが、途中で1音上げるとより気持ちが明るくなる。しかし、どの調から始めても途中で1音上げると同じ効果がある。最初の調は問題ではない。

――つまり、多くの作曲家が誤解をしているかもしれないということか。

そうだ。ベートーベンをはじめとして多くの作曲家は、特定のキーは独特の感情を引き起こすと思い込んでいる。だから、悲しい曲を作るときは、その特定のキーを使い、ロマンチックな曲のときは別の特定のキーを使った。他の人もそれに従った。

(出所)DIAMOND Online 2011年8月16日 「どうすればプロ級の演奏家になれる?絶対音感の正体とは?「響きの科楽」著者ジョン・パウエル博士が明かすあなたの知らない音楽の秘密」

何を言ってるんだ。分かってないのは、ジョン・パウエル博士の方である。偉大なる作曲家たちを馬鹿にするのもたいがいにしていただきたい。ベートーヴェンを始めとする作曲家はそんなアホじゃない。博士は、平均律ピアノに毒されて、その常識のみで語ってそれが正しいと思っている。思い上がりも甚だしい。

この手のことを語る時には重要な前提知識がある。音律と使用楽器の性質だ。どうやら博士は本まで書かれているのに、この程度のことすらご存じないようだ。

音律とは

皆さんも「平均律」という言葉は聞いたことがあるだろう。バッハの「平均律ピアノ曲集」などで出てくるからだ。(ちなみに、この「平均律ピアノ曲集」というのはトンデモナイ誤訳である。これは後で述べる。)平均律は19世紀後半から一般的になってきた、比較的新しい音律の一種で、1オクターブを12の半音に均等に分ける。そう、音律とは、どのように1オクターブを12の半音に分けるかということなのだ。

歴史的には「ピタゴラス音律」「純正律」「中全率(ミーントーン)」「ヴェルグマイスター」「キルンベルガー」などいろいろなものが使われてきた。ピタゴラス音律は完全五度を重ねた音律で旋律を美しく歌うのに適しており、純正律は3度の響きを重視したハーモニーを美しく響かせる(ただし、旋律的には妙になる)など、いろいろ特徴がある。バイオリンやチェロなどは、各弦を完全五度に調律するのである意味ピタゴラス。ただし、自由に演奏中にも音程を変えられるので、ハーモニーは純正律でつけるなどする。だから弦楽四重奏は旋律も響きも美しいのだ。合唱も同じようにすれば原則良いのだが、教会などで残響が極めて長い場合には旋律自体が和声になってしまうので、その場合は純正律で歌うなどだ。このような観点からすれば、自由に音程を変えられる楽器だけを使うのであれば、演奏場所によってピタゴラス+純正ないしは、純正で演奏すれば良いことになる。

音律と使用楽器の関係~鍵盤楽器の場合

さて、このピタゴラスと純正律であるが、いずれも1オクターブの中の半音は均等に配置されていない。ということは、ハ長調のトと変ホ長調のトは音の高さが違うなど、使用する調によって音の高さが変わってしまう。これは、自由に音程を変えられる楽器だけを使っている場合は問題ではない。しかし、皆さんご存知のように、全ての楽器が自由に音程を変えられるわけではない。音程を変えられない代表的な楽器がピアノなどの鍵盤楽器である。

鍵盤楽器は予め調律してある弦を叩いたりパイプを鳴らしたりして音を出す楽器なので、演奏中に自由に音高を変えることができない[1]。そうなってくると、こうした楽器をピタゴラスや純正律で調律すると、とても困ったことがおきてしまう。たとえば、ハ長調の純正律に調律したとしよう。すると、

  1. ハ長調以外の調に転調するととても音痴である。
  2. 純正律なので、旋律が変である。

という問題が出てくる。これを理想的な形で解決するには、1オクターブをものすごく細かく分けた鍵盤が必要になってしまう。これでは楽器が巨大になるし演奏も非常に困難だ。(もう一つの解決策は、クラビコードのように、鍵盤を押す力で音高を変えることである。バッハはこれができるから、クラビコードを愛した。ただし、こうすると音量がでなくなってしまう。)

そこで、どのような妥協を施すかという話になる。中全律やバッハの良音律、ヴェルグマイスター、キルンベルガーなどはいずれも異なるメリットデメリットを持った妥協的音律なのだ。どういう妥協かというと、ある調では極めて良く響くが、別の調では音が濁ったり、厳しい響きが出たり、妙に伸びやかな響きが出たりと様々なことがおきてしまうという妥協だ。そして、響きが悪すぎて使えない和音(ウルフ)も出てくる。当時の作曲家の技の1つは、こうした音律の元で使えない和声をいかに避けるかとか、それぞれの和声の特徴的な響き(同じ5度でも、広いとか狭いとかによって響きが異なる)をどのようにうまく使うかということもあったのだ。

上述のように、平均律は比較的新しい音律で、19世紀の終わりから使われ始めたものだ。逆に言えば、それ以前の曲は別の音律で書かれている。バッハの良音律鍵盤曲集の音律は、その表紙に書いてあるし、ベートーヴェンはキルンベルガー第2、ショパンもキルンベルガー第2、第3で書いている。そして、彼らはその音律の不均等さを存分に活かして曲を書いているのだ。だからこそ、シャープやフラットが妙に多い曲があるのだ。上記の引用でジョン・パウエル博士は「ベートーベンをはじめとして多くの作曲家は、特定のキーは独特の感情を引き起こすと思い込んでいる。」としているが、思い込んでいるのではなく、彼らの使っていた音律では、特定のキーは独特の感情を引き起こすのだ。

音律と使用楽器の関係~オーケストラ楽器の場合

鍵盤楽器と違い、ほとんどのオーケストラ楽器は、リアルタイムで音程の調性が可能である。バイオリンならば押さえる位置をちょっと変えれば音程が変わるし、フルートでも息の速度と角度で音程を変えることができる。だから、常にピタゴラス+純正律で演奏することが原理的には可能である。(もっとも、早いパッセージで正確に音程を取るのは非常に難しく、結局その楽器が調律されている中心的な音程になってしまう傾向はある。)このような場合はジョン・パウエル博士の言うように、どの調で演奏しても同じなのだろうか?

結論から言えば、これも否である。

それは、調によって各楽器の響きが異なるからである。

たとえばバイオリンを考えてみよう。バイオリンは下から G, D, A, Eの4本の弦を純正完全五度で調律してある。これらの弦は常に指で抑えているわけではなく、殆どの場合複数の弦は開放されている。これら開放されている弦は、現在演奏されている音によって、その音と共鳴したりしなかったりする。高い弦が共鳴すれば輝かしい音になるし、低い弦が共鳴すれば深みが出る。ということは、たとえばEが共鳴しないような調で作曲すると、曇った響きの曲になる。E Major (ホ長調)ならば、主音がオクターブで共鳴するから輝かしい曲になるし、E♭ Major (変ホ長調)だと共鳴しないからしっとりした曲調になる。

このような響きの性質は、各楽器に存在する。そして、作曲家はそれを念頭に置いて作曲するのだ。

というわけで、ここでもジョン・パウエル博士は間違っていることになる。特定のキーは独特の感情を引き起こすのだ。

ジョン・パウエル博士はなぜこんなにトンデモな結論に?

では、ジョン・パウエル博士はなぜこんなトンデモな結論に至ってしまったのだろうか?

それは、ある状況においては正しい~しかも昨今はその状況に満ち溢れている~からだ。そのある状況とは「鍵盤楽器を平均律に調律して弾く場合」である。

現在ほとんどのピアノは平均律[2]で調律されている。この音律だと、どの調で引いても響きは同じである。 そう、博士はこの状態の話をしているのだ。博士の間違いは、これを他の場合~作曲家が他の音律を想定している場合や、平均律以外で演奏する楽器の場合にも拡大して適用してしまったことだ。

博士の「響きの科楽 (How Music Works)」は読んでいないが、もしこの記事のようなことが書いてあって、それが都市伝説として広がっていくとしたら、大変残念なことである。博士にはぜひ猛反省していただきたいものだ。

 

[1] ピアノの場合、強く弾くのと弱く弾くので、弦が振動する長さが若干違う。弱く弾くと端まで振動しないので、強く弾いた場合に比べて音が高くなる。本当のプロのピアニストはそれを駆使して、和声の中の各音の響きを調整して美しい音を出すのだそうである。そういえば、どこかでアルゲリッチが「ピアニストの仕事は、どのキーにどの角度で指を落とすかということだ」というようなことを言っていたのを読んだことがある。また、同じピアノでも人によって驚くほど響きが変わるのも、こうした関係かもしれない。

[2] 1オクターブを12の半音に均等に分ける音律。英語だと Equal Tempered だから、本当は均等律の方が正しい訳だと思うのだが…。

 

 

 


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