吉川祥子健康保険証

本人確認と保険証~元オウム信者・斎藤容疑者の偽名保険証取得を考える

元オウムの平田容疑者を匿っていた斎藤明美容疑者(49)が、偽名で保険証を取得し、さらにそれを身分証明書として銀行口座を開設していたことが話題になっています[1]。これを受けて、私の twitter のタイムラインにもいろいろな声が出ています。その多くは、報道等と同様に、身分証明書が偽名で作れてしまったということを問題視していますが、一方ではそれは違うんでないの、という声もあります。そこで、ちょっと時間をとって整理しておきたいと思います。

今回問題になっているのは、斎藤容疑者が、大阪の整骨院で働くときに使っていな名前「吉川祥子」名義の健康保険証を取得し、これを使って銀行口座などを開設していたことです。

吉川祥子健康保険証
吉川祥子名義健康保険証。これは、協会けんぽのものだが、最初は政管健保の保険証として2000年8月に発行されている。

 

報道等によると、この健康保険証が最初に取得されたのは2000年8月[2]とのことですので、当時は政管健保として発行されていたことになります。

保険証発行のプロセス

では、保険証の発行はどのようにして行われるのでしょうか?

全国健康保険協会(協会けんぽ)のサイトに行くと、その手続は、日本年金機構のサイトで説明されていることが分かります。これによると、被保険者を雇用している事業者が、【被保険者資格の取得・喪失、被扶養者関係届書】を提出するだけのように見えます。実際、記事[1]の中で、日本年金機構の広報室が以下のように説明しています。

「申請は『資格取得届』の提出によって行われる。この際、住民票や戸籍謄本の添付は必要ない。事業主が本人確認を済ませて申請することが制度の前提。虚偽申請には罰則(6月以下の懲役か50万円以下の罰金)が設けられている」

【被保険者資格の取得・喪失、被扶養者関係届書】の中を見ると、氏名・性別などの他に、基礎年金番号(1997~)が原則必要だが、当時は必要なかったのでしょうか?まぁ、消えた年金問題から察するに、そのあたりの管理は杜撰(なければ新たに割り当ててしまうなど)だったんではないかと推察されます。当時は住基ネットはまだ稼動していないし、当然住民基本台帳との突き合わせしていません。申請書が提出される段階で、本人確認がされていることが前提の制度であると言えます。しかしながら、実際には中小企業では、本人確認が行われない場合が多かった[3]。

保険証を保険証として使う限り、これで問題は無い

では、これの何が問題なのでしょうか?

まず、健康保険制度の中での資格認定・識別手段としての保険証を考えます。

健康保険証が交付されるためには、その会社での勤務実績が必要になるので、そうやって作られた「アイデンティティ」と肉体の結びつきはかなり強いと言えます[4]。したがって、同時点で2枚取得などは困難です。夜も寝ないで働けば、2ヶ所に雇用されて2枚取得することも可能ではありますが、保険の給付は肉体に対して一回しか受けられないので、保険料を払うだけ損をすることになり、意味がありません。みなが保険料を払って、病気になった人がそのプールされたお金の中から給付を受けるという、健康保険本来の観点で言えば、これで十分と言えます。病院で治療を受けるのに、戸籍名を使う必然性はさらさら無いわけです。

悪いのは、保険証が意図しない用途、「一般的な本人確認」に使っている側だ

次に、健康保険制度の外での本人確認手段としての保険証を考えます。例えば、マネーロンダリングの防止(犯罪収益移転防止法)などです。

マネーロンダリングの手口はいろいろありますが、ここでは非常に単純な手口を考えましょう。当局にマークされている「田中実」さんが、別人の名前「鈴木茂」で口座を開いて、ここに裏資金を振りこませるというものです。これは、上記のような手口で「鈴木茂」名義の保険証を取得することで実現できます。保険証に写真がついていても同じ事です。

つまり、健康保険証というのは、本質的には健康保険制度の外側での本人確認には使えないわけです。しかし、それはそもそも意図された利用法ではないので、発行者が意図しない使い方をして本人確認をしている側のほうが悪いのです。犯罪収益移転防止法で使える本人確認書類とは、犯罪収益移転防止法の範疇で名寄せができる書類でなければいけないのです。保険証はそうではありません。

そもそも戸籍名でしか働いてはいけないのか?

「いや、そんなことはない。健康保険証がきちんと実名で発行されていればよかっただけだ。」という人も多くいます。そして、当時の社会保険庁の事務がダメだったのだ叩きます。

本当にそうなのでしょうか?

犯罪被害者予備軍(たとえば、DV旦那に追いかけられているなど)の人たちというのは一定数います。追われる立場の人です。しかし、警察は実際に被害者になるまで一般には事件として取り上げてくれません。本人からしたら、殺されてから事件として警察が取り上げるのでは遅すぎます。自分の身を守るには、逃げるしか無いわけです。そんな理由で、山奥の温泉宿に仲居さんとして偽名で住み込んで働いて子供を育てるというような人もいるようです。当時の社会保険事務所では、こういう人について、偽名であることを見通した上で、黙認して保険証を発行していたりもしたようです。戸籍名を強制すると、勤務先から漏れたりしますからね。人間味あふれる良い話ではありませんか。というか、これは、「正義」だと思います。杓子定規に規定を適用して戸籍名を強制し、犯罪被害者を産むのとどちらが良いのでしょうか?戸籍名でしか働いてはいけないというのは、あまりにも窮屈で、非人間的な世界なのです。

実際、ドイツでは仮名の利用が許されていますし、米国における実名とは、本人が通常使っている名前です。相手を騙して被害を産む目的以外であれば、何を名乗っても良いとのことです。

「パブロ・ピカソ」だって、「本名」は「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Crispín Crispiniano de la Santísima Trinidad Ruiz Blasco Picasso y López」ですが、何しろ本人も覚えていなかった(要出典)くらいですから、「パブロ・ピカソ」が実名でしょう。大体、「本名(戸籍名)」が苗字・名前の組み合わせというのは、世界に共通ではないのです。日本人の「本名」は単純ですが、世界全体がそうなわけではありません。

そもそも本人確認とは?

本人確認は常に戸籍名でとか、絶対確実にという意見が出てくるのは、「本人確認」の意味を本質的にわかっていないからだと思われます。「本人確認」とは何なのでしょうか?

ITU-T X.1254 | ISO/IEC DIS 29115 の定義[5]をひきます。

3.14 本人確認[Identity Proofing]

指定ないしは理解された保証の度合いで当該主体を識別するのに十分な情報を登録機関(RA)が入手、確認するプロセス [Process by which the Registration Authority (RA) captures and verifies sufficient information to identify an entity to a specified or understood level of assurance.]

つまり、本人確認をするという場合には、何の目的のためにどの程度の確からしさでやりたいのかを事前に決めて、それに向けて様々な情報を集めて確認しなければいけないのです。絶対的な本人確認など存在しないのです。保険証を保険証として使う場合には、上記のように、現状のプロセスで十分なのです。もっと言うならば、虚偽の申請をした場合の罰金は50万円ですから、損害が出たとしてせいぜい50万円程度の業務を想定していることがわかります。他の用途でも使いたいから、もっとしっかりやれ、というのであれば、「他の用途で使う人」がその費用を負担すべきなのです。でなければ、無理筋です。

また、「常に戸籍名で本人確認」することにすると、上記のように身体・生命の危険や、プライバシーの問題、言論の自由の問題など、様々な基本的人権の問題が噴出します。こういうことを言う人は、一体これらの課題についてどうしようと思っているのでしょうか?

さらに言うと、現在の日本では「本人確認」という言葉が、色々な意味で使われてしまっています。

  1. 最初にその「人」に結びつく「口座」を作るときの「本人確認」
  2. すでに存在する「口座」に「肉体」を結びつけるための「本人確認」
  3. 「口座」に対するアクセス権限を確認するための「本人確認」
  4. 他の人が「本人確認」をする時に使える「証明書」を作るための「本人確認」

などなど。ちゃんとした議論をすすめるには、これらをきちんと整理して使わなければならないのです。まぁ、ごちゃついているのは日本だけではありませんが、この記事を読まれたみなさんは、ぜひこれらを峻別して考えてみてください。いろんなことが見えてきますから。

 

[1] 美人元信者の健康保険証で波紋!“偽名”でも作れた, Zakzak, 2012/1/16 など多数。

[2] 日本経済新聞Web刊 2012/1/13 これに加え、掲載した保険証のコピーでも、資格取得年月日が平成12年8月1日になっている。

[3] 勤務先の整骨院は斎藤容疑者の保険証申請の際、住民票や運転免許証などで身元の確認をしなかったという。「大きな企業の健康保険組合なら転職の場合、前の組合から離脱した『資格喪失証明』の提出を必ず求める。しかし、事業主が中小企業だとこの手順が省略されてしまうことが多い」(社会保険労務士)と、申請段階で問題があったようだ。(出所 [1] 美人元信者の健康保険証で波紋!“偽名”でも作れた

[4] はっきり言って、住民票と本人の肉体の結びつきよりもはるかに強い。住民票と本人の肉体を直接結びつけるものは実は本質的には存在しない。

[5] 本当は、ISO 24760-1 の方が良いのだろうが、それだと長くなるので 29115で。24760-1関連は別記事で書く予定。

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