プライバシー侵害の重篤な帰結としての報道が無い不思議
まことに痛ましい事件だ。中3の男子生徒が万引きの濡れ衣を着せられて高校への推薦状を書いてもらえず、自殺したという事件のことだ。事件の内容は、「先生、どうせ聞いてくれない」 広島の中3自殺報告書1に詳しいが、特に注意を引いたのが、2013年10月にこの生徒が「万引きをした」と誤って書かれた資料が、校内の生徒指導会議で間違いを指摘されたにもかかわらず修正されずに、それを元に推薦状を書かないという「進路指導」が行われた2ということだ。というのは、これは「典型的なプライバシー侵害」による深刻な帰結だからだ。ところが、日本の報道では、これをプライバシー侵害として取り扱っているところはあまり無いように思われる。実際、Googleニュース検索で、「広島 男子生徒 自殺 万引き プライバシー 」と入れても、出てくるのはこの読売新聞の記事くらいで、これとても、当該男子生徒に対するプライバシー侵害という内容ではない。
この現象の原因はよくわからない。一つの仮説としては、日本の報道機関は、プライバシー侵害とは個人情報の漏洩のことだと勘違いしているのではないかということがあげられる。
なぜこの事例がプライバシー侵害か?
プライバシーは多面的で定義しにくいと言われる3。そのため、『ISO/IEC 29100 プライバシー・フレームワーク』などでは、プライバシーを直接定義するのではなく、プライバシーを尊重するために行わなければいけないことを「プライバシー原則」として打ち出している。ISO/IEC 29100プライバシー原則は、以下の11の点を打ち出している。
1. 同意と選択
2. 目的の正当性と規定
3. (個人情報の)収集の制限
4. (取り扱う)データの最小化
5. 利用、保持、開示の制限
6. 正確性と品質
7. オープンさ、透明性、通知
8. 個人の参加とアクセス
9. 責任ある状態の確保
10. 情報セキュリティ
11. プライバシー法令遵守(出所)ISO/IEC 29100 により、著者
この11の原則のいずれかでも確保されないと、プライバシー侵害が起こりうるということだ。今回の件では、これらの多くが守られていなかったわけ4だが、特にここで問題にしたいのが、第6原則「正確性と品質」だ。
正確性と品質の原則が守られないと、往々にして極めて重篤なプライバシー侵害を構成することが広く知られている。アメリカで良く問題になるのが、いわゆる「アイデンティティ窃盗 (Identity theft, なりすまし犯)」にまつわるものである。どういうわけかアメリカでは社会保障番号(SSN)に認証能力があると広く誤認されており、SSNを提供することによって、対応する名義のクレジットカードを作れてしまったりする。こうやって作ったクレジットカードを使って取り込み詐欺を行いドロンするというのが、「アイデンティティ窃盗」の典型的パターンだ。その結果、SSNに対応する「本人」は身に覚えのない犯罪の濡れ衣を着せられ、信用スコアがガタ落ちになって社会生活もままならなくなる、というものだ5。間違ったデータが結び付けられると、重大なプライバシー侵害が起きるのだ。
「正確性と品質の原則」は、このようなプライバシー侵害を防ぐための規範である。
今回の事件は、他人の行った犯罪履歴が自分に結び付けられてしまったことによる自分の進路に対する重大な影響があり、それにより内心が追い詰められ、自殺するに至ったのであり、「正確性と品質の原則」が守られなかったことによる重大なプライバシー侵害の帰結なわけである。まことに痛ましい。
このようなことが繰り返されないようにするために
プライバシーの侵害は、人の幸福追求6の根幹を揺るがすものであり、場合によると死に直結するほどの重大な帰結を生むものである。
関係各人、特に教育関係機関は、そのような認識のもと、上記の11原則が守られているかどうか、今一度総点検すべきであろう。
また、報道機関においても、このような報道を成す際に、プライバシーの観点からの分析をすることを習慣化することが望まれていると言えよう。
脚注
- 「先生、どうせ聞いてくれない」 広島の中3自殺報告書: 朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASJ3B5RS3J3BPITB00X.html
- 「万引き」資料、ミス指摘後も会議に6回提出 中3自殺(朝日新聞デジタル 2016年3月11日) http://www.asahi.com/articles/ASJ3B5SVYJ3BPTIL029.html , 『広島・中3自殺 別生徒の万引き誤記録 学校側、推薦拒否』(毎日新聞2016年3月8日)http://mainichi.jp/articles/20160309/k00/00m/040/081000c
- 個人的にはそうでもないと思っているが、それはまた別の機会に。
- 詳しく見ると、ほとんど全滅ではないかと思われる…
- これはもちろん、後から修正可能なのだが、これにはかなりの期間と金銭的負担が必要になるようである。
- ハーバード大学の75年間にわたる追跡調査(ロバート・ウォールディンガー『人生を幸せにするのは何? 最も長期に渡る幸福の研究から』など参照)によると、人の幸福の根本は、良好な対人関係であることがわかっている。今回の件で言えば、「万引き犯」との濡れ衣を着せられ、志望校への進学の望みを絶たれ、それによる人間関係の破壊が死をもたらしたと言えよう。
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