クーラウ生誕230年によせて

どうも私は、歴史には残っているけどマイナーな作曲家に縁があるようです。

家で楽譜の山を整理していたら、フリードリヒ・クーラウ(Firedrich Kuhlau, 1786/9/11-1832/3/12)のTrio in G op.119が出てきました。

クーラウというと、なんといってもソナチネ・アルバム。冒頭の曲がクーラウの『ソナチネ第1番ハ長調 op.20-1』なので、ピアノをやったことがある方々にはとても馴染み深いというかなんというか。ドソミソドソミソとアルベルティ・バスをI-IV-V-Iで繰り返している退屈な曲を書く作曲家みたいなネガティブな印象が強いのではないかと思います。幼心に、「あ〜」と思っていると、なかなか好きになれないものです。私もそうでした。

このクーラウ、色々とフルートのための曲を書いていて、たとえば:

などフルートの曲を多く残しています。

作風がベートーヴェンに似ていることから「フルートのベートーヴェン」と呼ばれることもあるようです。ただそういわれてもね。なんかやっぱり単調なんですよね…。どうしてそこでそのフレーズを繰り返すかな、とか、和声を変えないかな、とかが結構ある。

ところがです。46歳で亡くなる年に最後のフルート曲『トリオ ト長調 op.119』を書いているのですが、これがね、どういう風の吹き回しか、結構良い曲なんですね1。Youtubeにあるのだと、これが演奏としては良いかな…。

あと、私が好きな演奏に、クーラウのフルート曲演奏の第一人者のトーケ・ロン・クリスチャンセンとウィリアム・ベネットの演奏が有ります。トーケ・ロン・クリスチャンセンは世界で最初にクーラウのフルート曲の全曲録音をした、デンマーク放送交響楽団のフルート奏者です。テンポは上記のBizjak/Zupan/Misumi のはずっとゆったりしていて、爆速好きなわたしの好みとは本来違うのですが、この曲の別の側面を良く表しているからです。

[AMAZONPRODUCTS asin=”B0047G793O” listprice=”0″ ]

それは何か。

『歌』です。

この演奏だと、オペラの中のソプラノとテナーかアルトのデュオのように聞こえてくるのです。ひょっとして、クーラウってオペラとか得意だったのかなと思って調べたら、ビンゴでした。

クーラウの生涯

クーラウは1786年に、北ドイツ・ハンブルグの近くのユルツェン(Uelzen)に生まれました2。父親は軍楽隊のオーボエ奏者で、その為転勤がしばしばありました。彼が7歳の時、家族はリューネブルク(Lüneburg)に移住しましたが、その冬、氷の上で滑って幼いフリードリヒは右目を負傷し、失明しました。14歳でブルンスヴィック(Brunswick)のギムナジウムを卒業すると、非凡な音楽の才能を示していたため、1788年にC.P.E.バッハの跡をついでハンブルグの音楽監督になったシュヴェンケ(Christian Friedrich Gottlieb Schwenke)のもとで作曲の勉強を始めます。

その後数年間、クーラウは歌と室内楽の作曲をしますが、1804年になると、コンサート・ピアニストとしてしばしば登場するようになります。この頃から死に至るまで、彼はずっとピアノ曲とフルート曲を生活費を得るのために作曲しつづけました。フルート曲が多いので、彼自身フルートを吹いたと思われていた時期もありましたが、実際には彼はフルートを演奏することはできませんでした。

1810年になると、クーラウはナポレオン戦役による徴兵を逃れてデンマークに移住してました。この時までに、彼はピアノ協奏曲ハ長調op.7を完成させており、これによって、1812年に無給ではありましたが3、デンマーク宮廷音楽家の地位を得ました。このころの生活は、ピアノ演奏と楽器を教えることによって支えていました。

なお、クーラウはベートヴェンを尊敬しており、彼のピアノ曲にはその影響が色濃く見られます。たとえば、ピアノ協奏曲ハ長調op.7は、その15年前に書かれたベートヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調op.154のパスティーシュになっています。それ以外にも、デンマークへのベートーヴェン音楽の紹介は、クーラウを通したものが多かったようです5

彼がブレークしたのは無給宮廷音楽家となった2年後、ジングシュピール『Røverborgen(盗賊の城)』(1814)ででした。61816年には高給で王立劇場の歌の教師となり、1817年にはその職を辞して、しばしば作曲を求められる宮廷音楽家となりました。この頃から、クーラウは立て続けにオペラ・歌芝居(ジングシュピール)を作曲し始めます。『魔法のハープ (Trylleharpen) 』 (1817), 『エリーザ (Elisa)』 (1820), 『ルル (Lulu)』(1824), 『Hugo og Adelheid 』(1827)などです7。そして、1828年8には、ジングシュピール『妖精の丘』(1828)でデンマーク音楽史上初の国民ロマン主義音楽を打ち立て、デンマーク音楽の黄金期を築きました9。その後も『ダマスカスの三つ子の兄弟(Trillingbrodrene fra Damask)』(1830)などを書いています。ソナチネの人、ではなかったのですね。

こういう観点でもう一度クーラウのフルート曲などを聴き直してみると、器楽曲としてよりも歌曲として考えて吹いてあげたほうが良さそうな曲が多いですね。フルート曲を書くときも、実際には頭のなかにはジングシュピールが流れていたのかもしれません。歌のイメージで音楽を再構成してみると、ひょっとすると、今提供されている演奏で聞くよりも良い曲になるものもあるかもしれません。

さて、1828年に絶頂を迎えたクーラウですが、その後、悲劇が続きます。両親は1830年に亡くなり、翌年には火事で家が燃えてしまい、ほとんどの手稿が失われてしまいます。これが原因で、クーラウは肺を病み、1832年に46歳の若さで亡くなります。件の『トリオ ト長調 op.119』は最後から4つめの作品だったのですね。

クーラウの遺作『弦楽四重奏イ短調 op.122』(1832)

彼の遺作は『弦楽四重奏イ短調 op.122』(1832)です。あたかも死を予見しているような暗い序奏(Andante Sostenuto)から始まり、怒りとも無念とも悲しみとも焦りとも取れるような激しい第1主題(Allegro assai poco agitato)が続きます。ひと通り主題を展開すると、その後に、楽しかった日々を追憶するような、北欧の民謡にありそうな旋律の第2主題がヴァイオリンの二重唱(ハ長調)で現れます。その後、短い展開部を経て、再現部を迎えます。この時、第2主題はイ長調で現れます。第二楽章(Andante con espressione)は、とてもオペラティックな曲です。頭のなかでオケパートと歌パートに分解してみると楽しいと思います。第三楽章(Scherzo: Allegro assai)は、2つの主題を対位法的に絡み合わせた第一部と、対照的に単純明快な第1バイオリンの旋律を、第2バイオリン、ビオラ、チェロがピチカートでつくるリュートのような伴奏で支えるトリオを持つ三部形式楽曲。第四楽章(Finale: Allegro molto)は拡張ソナタ形式。イ短調で始まるかとおもいきや、意外にもイ長調のコラールで始まります。デンマークの民謡でしょうか?そして、その提示が終わると、いかにもオペラの序曲風のリズミカルな第1主題が提示され、若干展開した後、第2主題の「歌」がバイオリンで現れ、それをうけて先ほどの第1主題のリズムが刻まれ主題提示部が終わります。展開部は、コラールの動機と第一主題の動機を繰り返して聞かせた後、コラールの動機を主題とするフーガが展開されます。再現部はコラールで始まり、第1主題、第2主題ともにイ長調で現れて華々しいコーダで終わります。

おすすめの演奏は、eSBe String Quartetの演奏です。

[amazonproducts asin=”B00BR0SH02″]

すっかりロマン派ですね。ベートーヴェンと親交があったりなので、古典派と思いがちですが、ベートーヴェンもまた晩年はロマン派に分類されるくらいですからね。

当時の音楽的時代背景〜1831年ごろに書かれた他の名曲

なお、1831年頃の音楽的状況を理解するには、当時どんな曲が書かれていたかを知るのが有用です。ここでは、中でも有名な曲2曲を紹介して終わることにしましょう。

一つ目は、ショパンのピアノ協奏曲第1番(1830)です。最終楽章ではポーランドの民族舞踊のリズムが使われて、民族ロマン主義が感じられます。演奏はクリスチャン・ツィメルマンで。のだめカンタービレで、のだめが激遅の「異色のショパン」を弾きますが、それってこれが着想何じゃないかと思わせる演奏です。これ以前の演奏では、オケが単なる伴奏だったものがほとんどなのですが、この演奏では非常に細かくニュアンスが刻まれていて、「あぁ、これがショパンが意図したものだったのだ。」と思わせてくれます。ピアノの美しさは比類がありません。正に革命的演奏です。

[AMAZONPRODUCTS asin=”B001RVITE0″]

もう一つは、ベルリオーズの幻想交響曲(1830)。オーケストレーションに革命を起こした曲です。

Berlioz : Symphonie Fantastique (Fantastical Symphony)
The Orchestre philharmonique de Radio France conducted by Myung-Whun Chung (2013)

[AMAZONPRODUCTS asin=”B00BIYUULG”]

脚注

  1. アナリーゼは別途やります。
  2. 以下、http://www.allmusic.com/artist/friedrich-kuhlau-mn0002285780/biography による。
  3. 1813年に国家が破産したため給料が支払われなかったとの説あり。 http://www.hmv.co.jp/artist_%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E9%9B%86_000000000222284/item_Scandinavian-String-Quartet-kuhlau-Berwald-Grieg-Sibelius-Copenhagen-q_1818368
  4. 第1番とついていますが、作曲は第2番より後なので、実際には2番めの協奏曲になります。
  5. 実際に、クーラウは1821年(4ヶ月間)と1825年にウィーンを訪問し、ベートーヴェンと親交を持っています
  6. このころ、妹と両親もデンマークに移住してきて、彼はその全員の生活の面倒を見る必要がありました。
  7. Lulu以外はあまり成功とは言えなかったらしい
  8. この年には名誉教授の称号を与えられ、かなりの年金を得られるようになりました。
  9. で、ちょっと聞いてみたけど、う〜ん。デンマークとスウェーデンの民謡を上手く使っているらしいので、それらを知っていれば別なのかもしれません

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください