先日、マザー・テレサが亡くなった直後、あれはNHKだったと思うが、彼女の率いていた修道会と、彼女の活動についてのドキュメンタリーをやっていた。その修道会に集う人たちは、ひとりひとり別々の理由でその修道会にやってきたのであり、バックグラウンドも千差万別である。にもかかわらず、わたしは彼女たちを見ていて、「ああ、家族なんだな」と感じたのであった。
もとより彼女たちはキリスト教の集団ではあるが、その救済活動の対象はキリスト教徒に限らない。それが何教徒であれ、異質性を認めた上で救済の対象としている。ある意味で、彼女たちの活動は、世俗的な宗教の「異質性の排除」を超えたところでの救済であると言えよう。
実はそのあたりに、彼女たちに「家族」を見ることができた理由があるような気がする。
人はだれしも基本的には「個」であり、自分自身のことも完全に理解することもできなければ、まして人のことを完全に理解することもできない。多くの不当な差別は、この「異質性」を認めず、自らの「独自」な、しかし自分では「普遍的」と勘違いしている価値観で他を計ることに起因している。そしてそれは、往々にして、「他」に厳しくあたり、「他」の価値観を認めないという結果を導き出す。このことは、植民地政策や人種差別政策に顕著にあらわれているが、このような傾向は、多かれ少なかれ、誰にでも見られるものであるように思われる。人は誰しも他人には厳しいのである。
この構図は本質的には変わらないとしても、血縁の中では若干違った様相を示す。それは、「家族」だから、たいていのことは、最終的には、許さなければいけないという、伝統に裏打ちされた、無意識的な許しがあるからである。
マザー・テレサの修道会が一つの家族に見えたのは、このあたりに理由がありそうだ。すなわち、互いに許しあえる関係であるということである。それは、互いの異質性を理解した上での許しであり、意識的な許しである。つまり、家族の本質は「許し」にあり、その意味で、その修道会は、「理性」による、より高次の「家族」であると直感的に感じられたのであった。
血縁でなくても、背景が異なっていても、許しの気持ちがあれば家族にはなれる。それは、学校であっても、より広い社会であってもである。そして、世界が一つの家族になったとき初めて、戦争も飢えもない社会が到来するのであろう。
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