わたしのおすすめ7冊の本

その昔、#7BookCoverChallenge というものがありました。読書文化の普及に貢献するための課題だそうです。「参加方法は、お気に入りの本を7日間、毎日一冊表紙の写真を撮って投稿すること。 本についての説明なしで、表紙の画像のみをアップロードし、毎日このチャレンジにSNSの友達をタグ付けして招待します。」というものですが、わたしは総務省のガイドライン1もあるので次に回すことはせずに、そのかわり書評をつけてFacebookにアップしました。4年前のコロナの真っ只中の6月のことです。Facebookだと流れていってしまってアクセスがむずかしくなるので、ここにそれらを再録したいと思います。

1日目:ハッチンズ『偉大なる会話』(田中久子訳)

第1日目は、シカゴ大学の総長に30歳という若さで就任、その後21年間その職にあったアメリカ教育会の巨人、ロバート・M・ハッチンズの「偉大なる会話」です。岩波書店から出ていた本で、原著では『自由のための教育(Education for Freedom)』と『偉大なる会話(The Great Conversation)』の2分冊になっていたものを、岩波書店が1巻にまとめたものです。

『自由のための教育』は「無教育者の自叙伝」という章から始まり、リベラル・アーツの重要性を訴えかけています。

「自由学芸(リベラル・アーツ)は、文字通り、自由に関する学芸(アーツ)である。自由になるためには、人間は自分自身が受け継いだところの、また自分がその中に生きているところの伝統を理解しなければならない。(中略)つまるところ学生に自由人になるための教養を与えるには、自由学芸と大著述2の分野で教育しなければならないのだ。」

読んだのはおそらく中学三年生の時です。当時ナイロビにいましたから、日本語の本はなかなか手にはいりません。その中で、父の書斎にあった本棚から取り出して読んだ本です。父の本への書き込みも重要な場所の判別にとても役に立ちました。おそらくその後のわたしを形創るのにもっとも影響があった一冊と思われます。わたし自身は、遺憾ながら、ハッチンズ博士がシカゴ大学を退任した歳を遥かに超えた今でも無教育者のままではありますが。

このような良書が絶版で読むことができないというのは、著作権法の失敗であるように思えます。絶版になったら、権利者に著作権料を per copy で払うようにして、電子的に閲覧できるようにしてもらいたいものです3


2日目: シェークスピア『あらし』(福田恆存訳)

第2日目は、福田恆存訳のシェークスピア最後の作品、『あらし』です。みなさんが上げるものであろうので、ここであげるのもどうかとは思ったのですが、このあと取り上げる本の意味が、これがあると無いとで変わってくると思ったので上げておきます。

シェークスピア最後の単独作品として、彼の創作活動の集大成とされ、後世の文学や芸術に大きな影響を与え、多くの翻案や解釈を生んでいる作品です。リア王の浄化版とも言われ、作品のテーマは「復讐と赦し(プロスペローの心の変化が中心テーマ)」「 文明と野蛮(キャリバンを通じて植民地主義を批判的に描く)「 芸術と現実(プロスペローの魔法は芸術の比喩とも解釈される)」「自由と束縛(アリエルの解放はこのテーマを象徴する)」と言われます。作品の終わり近くに現れる、ミランダの「How beauteous mankind is! O, brave new world(人類とはなんと美しいのかしら!ああ、すばらしい新世界)4」というセリフが特に有名です。

高校時代家にあったのは、表紙はこんな派手なものでは無かった気がするのですが、福田恆存訳であったのは確かなのでこのカバーを載せておきます。ただし、上記の台詞は別訳になっていて、「すばらしい新世界」が出てこないのはちょっと残念です。


3日目:プラトン『国家』(藤沢令夫訳)

第3日目は、プラトンの『国家』を上げます。

言わずと知れた西洋の知の体系の礎を成す本であり、その影響下にある現代日本でも必読の書であると考えます。当然第1日目にとりあげたハッチンスでも必読とされるものです。

これを読むと、現代の様々な学問がこの礎の元に築かれ、その枠組の中にあることがわかります。たとえば、わたしが学んだような経済学も、この本が示しているフレームワーク〜イデアの存在を明らかにし(一般均衡の存在を証明)、その最適性を証明し(そのパレート最適性を証明)、そこに現実を近づけるセカンドベストを模索する(課税理論、再分配論など)〜に則っています。

そして多くの場合、わたしたちは彼が提示した枠組みの指し示すとおりに、本来あるべき方向とは逆方向に進んでいるのもまた噛みしめることができる本です。

ちなみに、国制の変遷の解説の部分5と洞窟の寓話が取り出されることが多い(いずれも下巻なので表紙はそちらにしました)ですが、本質は正義とはなにか、幸福とはなにか、愛知とは何か、ということを著したものだと理解しています。そして、そのための教育の重要性を述べ、いわゆるリベラル・アーツ=自由四科(算術、幾何、音楽、天文)およびそれを統合するロゴスの重要性を述べたものでもあり、西洋の学問体系の中で実学よりこうしたものが上に位置づけられるのかもここに起因しているのだと思っています。

無知無学なわたしには全容の理解は到底望めないでしょうが、少しづつでも理解を深めていきたいものです。そして、すこしでも多くの人がこの本から学んでほしいと切望するものです。6


4日目: ハックスリー『すばらしい新世界』(松村達雄訳)

第4日目は、オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』を上げます。

『1984』や『動物農場』と並ぶディストピア小説の代表ですが、これらより英文学の中では高く評価されているようです。それは、『1984』などがソ連を下敷きにディストピアを描いているのに対して、『すばらしい新世界』は現代の我々が住むグローバリズム資本主義をその下敷きにしているからかもしれません。ここで出てくるコンセプトは、おそらく現代のわたしたちの暮らしにそのまま当てはまります。そして、そのなかでシェークスピアを諳んじている野蛮人ジョンは…。ネタバレになるのでここまでにしておきます。

このように、表面的には幸福である「地獄」を描いたというのが、世間一般の評価でしょうか?そして、それとシェークスピアの対比。そう、「すばらしい新世界」というのは、二日目に取り上げた『あらし』のなかでのミランダのセリフ「O brave new world」(第5幕第1場)の引用なのです。シェークスピア的世界を理想とし、現代社会を地獄として描いているというわけです。なにしろ、十字の代わりに、T型フォードのT字を切るくらいですから。

しかし、わたしはこの見方に疑念を持っています。というか、これがディストピア小説であるかどうかもいささか疑わしいと思っています。確かにハクスリーの兄は優生学の学者で、オルダスがそれに反発していたというのはあると思います。しかし、野蛮人ジョンが、この世界の支配者ムスタファ・モンドからうけた説明の衝撃はどうでしょうか?そして、ジョンはなぜあのような選択をしたのでしょうか?

わたしの意見を言うならば、この小節がシェークスピアの礼賛であると考えるのは過剰なロマン主義であろうかと思います。むしろ、この小説は、三日目にとりあげたプラトンの『国家』と対比して読まれるべきなのです。そう。この『すばらしい新世界』はプラトンの理想世界である哲人国家を現代化したものにほかなりません。これを地獄と感じてしまうわたしたちは、プラトンのいう『民主主義国家』の愚かさに毒されているのではないか。

『すばらしい新世界』は、そういう鋭利な刃物を、シェークスピアを愛し、自由民主主義を信奉するようなわたしたちの喉元に突きつけてくる小説なのです。


5日目: 藤沢修治『新・モーツァルト毒殺事件』

折返しの4日目までは超真面目路線だったので、5日目からはちょっと砕けていきたいと思います。で、モーツァルトの交響曲第41番とかとしようかと思ったのですが、まぁこれはちょっと真面目すぎるかな(はい。そのままプラトンの延長に行きます)と思ったので、ちょっと色物で藤澤修治 (著)『新・モーツアルト毒殺事件』をあげたいと思います。

モーツアルトの死には不審な部分が沢山あります。世にはよく、モーツアルトの晩年は借金で赤貧洗うがごとしだったなどといわれますが、実際の収入と支出を見るととんでもない。超売れっ子作曲家で、毎年数千万の収入がある。最後の半年など、それだけで3000万。一方、生活は慎ましやかというか、金を使う暇もなかったみたいなので、めちゃくちゃ黒字〜年数千万レベルで〜というのが帳簿等からわかってしまいます。帳簿〜モーツアルトってとても几帳面で帳簿をつけていたのですね。これも劇や映画から知られるものとは対照的なんですが、よく考えてみると、そうじゃなきゃあんな細かい緻密な音楽かけないですね。じゃぁあの借金の手紙は何だったのかというと…。

そうした中では、コンスタンツェの療養費用も、その莫大な所得からすると取るに足らぬもの。てかそもそも、コンスタンツェって病気だったの問題とか、なぜ突然モーツアルトはベルリン行きしたかとか、コンスタンツェは一度も墓参りにすら行かなかったのかとか。はたまた、モーツアルトのあの有名な肖像画はどうして未完なのか。その裏には、モーツアルトの大恋愛も絡んできてさあ大変。わたしたちが知っているモーツアルトについての物語はもろくも崩壊してしまう。

その他にも、墓地への遺体の持ち込み記録など、文献を追いかけ、本来あるべき文献が抜けていることを突き止めていき、そこから浮かび上がる実相を推理する~隠されたものは不都合な真実~そういう本です。そして、その裏には啓蒙的だった君主から代わった保守的な君主と、啓蒙主義の旗手であった超有名人モーツアルトとの間の確執が…。まさに事実(?)は小説よりも奇なり。音楽ファンでなくても楽しめるとともに、数字を追うことの重要性が身にしみてくる本です。絶対楽しめると思います。


6日目:紀野恵 の『さやと戦げる玉の緒の』(1984) と『フムフムランドの四季』(1987)

紀野恵(=わたしと同年生まれ)という歌人のことを知ったのは高校生の時、多分 1982年とかそのくらいではないかと思います。父が日本からナイロビの家に帰ってくるなり「とんでもない歌人が出てきた」とものすごく嬉しそうに話していたのを思い出します。日本に戻ったときに立ち寄った未来短歌会であったんだか、紹介されたのだかしたらしい。そして聞かせてくれたのが

いろいろにいろはにほへとちりぬるを薔薇は薔薇であって飽くまでも薔薇

電撃に打たれました。天才だと。高校1年?2年?

これが収められているのが『さやと戦げる玉の緒の』です。

『フムフムランドの四季』は大学の頃の歌集。

うすあをの乗船券は凍蝶の羽の如しも埠頭をゆけば

「波の間に散らし果つべき御言の葉」「そは身勝手といふものぢやおゑふ」

冬のあさ潮岬を過ぎてからきのうふのこともあしたのことも

など、味わい深い歌が並んでいます。同じ頃話題になった、3つ年上の俵万智の『サラダ記念日』の平易さとの対局にあるような新古今調の歌々です。

この2冊は、どちらも父が残した本です。私自身はその後積極的に追いかけていなく、ふとブックカバーチャレンジで思い出したのでした。

早熟の天才、今はどんな歌を詠んでいるのでしょうか。

ちょっと調べてみたくなりました。


7日目:そして7日目は…

実は2020年に書いたときは6日目までで終わっていました。6日目に二冊紹介してしまったからです。しかし、こう振り返ってみると絶版ばかりで驚かされます。そこで、新たに一冊追加しようと思います。

それは、モーツアルトの『交響曲第41番<ジュピター>』です。

5日目にモーツアルトは、戯曲「アマデウス」で描かれているいい加減でかつ狂った天才とは対局の緻密な人だと書きました。これは帳簿をつけていることからも、彼自身が「自分ほど努力をしている人はいない」と書き残していることからも見て取れます。が、一番わかるのはやはり彼の残した楽譜自体でしょう。クラシック音楽は楽譜を見ないと真価はわからないと言われますが、これなどはまさにそうで、寒気がするほど緻密に書かれた、まさに算術を時間方向に拡張して神と対話するための学問「音楽」を体現するものと言えましょう。これは、次の動画を見るとよく分かると思います。

というわけで、7日目はモーツアルトのジュピターでした。

脚注

  1. チェーンメールを受け取った際は、転送は止めてください!
  2. 自由学芸を通して、われわれの伝統に対する明晰、かつ肝要な理解を与えてくれる本。プラトン、アリストテレスなどから連なる体系。
  3. 英語版は当然手に入ります
  4. 筆者訳
  5. 国家の体制の変遷のところでは、ヒトラーやトランプの出現も予言されています。
  6. もちろん、現代の我々からすれば明らかに間違いである(地動説)ことやら、プラトン自身が「思わく」をあたかも知識のように語っていたりなど、不完全なところもたくさんあるわけですが。

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