とまりゆく時間のなかでわれの息死に絶えるまで今を重ねる (しらいしまさこ)
「われの息死に絶えるまで今を重ねる」。厳然たる事実。その事実の観察をぽんと言葉に写生している。読んだ瞬間に、あ、やられた、と思った。今まで、考えもしなかった。生きるということは、そういうことなんだなと再確認した。すごい。同じモチーフで何か書きたいが、今は眠すぎる…。
木蓮の花弁は白く散りたりけり
わが息の今を重ねたりけり
わが息は時を数えたりけり
死に絶えるその時までを数えたりけり
ん〜、ちょっとイマイチ 🙁
とまりゆく時間のなかでわれの息死に絶えるまで今を重ねる (しらいしまさこ)
「われの息死に絶えるまで今を重ねる」。厳然たる事実。その事実の観察をぽんと言葉に写生している。読んだ瞬間に、あ、やられた、と思った。今まで、考えもしなかった。生きるということは、そういうことなんだなと再確認した。すごい。同じモチーフで何か書きたいが、今は眠すぎる…。
木蓮の花弁は白く散りたりけり
わが息の今を重ねたりけり
わが息は時を数えたりけり
死に絶えるその時までを数えたりけり
ん〜、ちょっとイマイチ 🙁
朝焼けのまぶしい時間すぎゆかばまばゆいだけの昼下がりかな
寝息たて犬も眠るか朝の陽は昇りゆく空影の減る部屋
ささやかに聞き耳立ててオトくんは寝息の中へすべり落ちたり
明るくも暗くもなるか朝の陽は雲の気配をしのばせている
小さくもためいきのなかすこしずつ…
■ ありゃりゃ
タイトルの歌も、ほかの歌も好きでしたよ〜。個人的には、歌の完成度としては、「少しずつ氷のかたち崩れゆくそれが今さと夢みてみれば」のほうが良かったかな。でも「今を重ねる」は視点が、「おっと」と思わせてくれた。つまり、歌自体の完成度よりも、歌に歌われる内容ですね。
私自身は、自分を歌人や詩人だとは思っていないとは以前書きました。なぜなら、自分のやっていることは、言葉遊びであって、ほとんどの場合、本当の「詩」では無いと思っているからです。本当の「詩」は、そこに語るべきものが無ければいけないと思っているからです。それをあらわすのに、写生は好都合なわけで。ただ、語るべきものがあるときに、それをきちんと語るのは難しい。それで沈黙してしまう。3年くらい平気で沈黙してしまう。それじゃぁいけない、言葉遊び位しようということで、最近ブログにつらつら書いているんです。
え・・・そーなんですか?
今、また記事をアップいたしまして、・・・悩む。自分で自分の歌はわからないですから。勉強させていただきました。それではまたタイトルを直すか・・・主体性の欠如、です。
昨日詠んだ短歌の記事のタイトルを変える。最初は、自分で選んで、 (1) 少しずつ氷のかたち崩れゆくそれが今さと夢みてみれば にしていた。でも、今朝、Natさんのブログへ行ったら、 (2) とまりゆく時間のなかでわれの息死に絶えるまで今を重ねる を選歌してくださってい
枡野さんのところから来ました。
よろしく。
ここは、トラックバックできないのかな?
出来ないみたいなので。。。。。
こんなんを創ってみました。
アメブログのブックマークに全部が登録できないことがわかったので、
< リンク=http://www.geocities.jp/by_kamome/blogbm.html>ブックマーク一覧>を急遽作成。
これからも、ここに登録していきたいと思います。
載っけて!と言う人は、ぜひトラバしてね(*^_^*)。
アメブログの人は、読者登録してくだされば、自動的にリンクできますから相互リンクよろしく!
です。
■ 勝手な好みを言うならば…
すみません、えらそうなことを言って。気にしないでください。勝手な好みを言うならば、
(1) 少しずつ氷のかたち崩れゆくそれが今さと夢みてみれば
は上の句が好き。
(2) とまりゆく時間のなかでわれの息死に絶えるまで今を重ねる
は、下の句が好きです。
(1)の下の句は、今となってはちょっと砕けたすぎた感じで、(2)の「とまりゆく時間のなかで」も、何か写生で置き換えたいところ。個人的な好みですが。好きなところだけくくりだすと、
少しずつ氷のかたち崩れゆく
われの息死に絶えるまで今を重ねる
短歌にはなりませんが、これで既に完成している感もあり。無季俳句2首でしょうか。
ん〜、そうは言っても、やっぱり「とまりゆく時間のなかで」も効いているな。なんて考え始めると、詠めなくなっちゃんですよねぇ…。
*** その後 ***
東京駅のキッチンストリートで夕食をとっている間ずっと考えておりまして、今、中央線の中なんですが、こんなのができました。
音も無く溶け行く氷凝視して
死までの今を息は重ねり
まぁでも、オリジナルの力強さは出ないな…。定型詩は難しい…。