“Sonata quasi una fantasia” (幻想曲様ソナタ)1、通称「月光ソナタ」(op.27, No.2) 2は、ベートーヴェンの数あるソナタの中でも最も演奏される機会の多いソナタでしょう。
その冒頭には、曲想を決定づける2つの演奏指示をベートーヴェンが入れています。図1にある、「Si deve sonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordini(曲全体、ダンパー無しで最高に繊細に聞こえなければいけない)」3と、それを更に補強するかのごとく段の中に書かれている「sempre pianissimo e senza sordini(全体を通してピアニッシモで、ダンパー無しで)」4です。
この指示を理解するには、ベートーヴェンが想定したピアノの構造を理解しなければなりません。
まず、説明が簡単な「sempre pianissimo e senza sordini(全体を通してピアニッシモで、ダンパー無しで)」が何を意味しているのかを解説しましょう。
ベートヴェンが使っていたAnton Walter5のピアノ・フォルテには、弱音器が装備されていました。現在でも多くのアップライトピアノには、ハンマーと弦の間にフエルトの布を挟み込む機構がありますよね。あれです。当時のピアノのハンマーは革でできていて、比較的硬い音がしましたが、この「弱音器」を使うことによって、フエルトのもたらす柔らかい音を出すことができるようになるのです。ベートーヴェンの「sempre pianissimo e senza sordini(全体を通してピアニッシモで、ダンパー無しで)」は、この弱音器を使うようにという指示と思われます。
次に、「Si deve sonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordini(曲全体、ダンパー無しで最高に繊細に聞こえなければいけない)」です。
この曲が書かれた当時のピアノは、ダンパーの操作が、手でレバーを引いてダンパーを上げるハンド・ストップ(図2)6から、膝でダンパーを上げるようになる(図3)7のの端境期でした。
ベートーヴェンが使っていたA. Walterのピアノ・フォルテはこのような「膝ペダル」を持っていましたが、ここではベートヴェンは「旧式」のピアノ・フォルテ8のように、ダンパーを上げっぱなしにすることを求めているのです。
この「ハンド・ストップ」の別名は「Celestial Stop(天のストップ)」であり、「残り続ける残響を上手く処理することができるなら、幻想的な即興をするときには、非常に喜ばしい結果を産む。」とC.P.E.Bachが1762年に書いているものになります9。ベートーヴェンは正にその効果を求めているのです。そのことは、ベートーヴェンの秘書であったアントン・シントラーが1850年代にベートーヴェンの伝記の改訂版を出した時に「現在のピアノは響きが長すぎるので、このベートーヴェンの指示は適切でない。」と書いていることからもわかります。これは、現代のスタインウェイなどのピアノにも当然当てはまり、音が濁ってしまうために、コード毎にペダルの踏み変えが必要になります。こうすると、バスの旋律が強調されることになり、ベートーヴェンの意図した音楽とややズレが出てきてしまうことになります。
ベートーヴェンが指示したとおり、ダンパーを上げっぱなしでA. Walterのピアノで弾くとこうなります。
霧の中を漂うような、なんと美しい響きでしょうか。この事を紹介してくださっているTom Beghinさんの演奏で、ぜひ、全曲を通して聞いてみたいところですが、Youtubeには上がっていないようなので、同じくA.Walterのピアノ・フォルテで全曲演奏したものをご紹介しておきます10。
現代ピアノではどう弾くべきか
こういったことを踏まえて上で、では現代ピアノではどう弾くべきなのでしょうか?
おそらくハーフペダルを駆使して弾くことになるのだと思います。アンドラーシュ・シフ氏によると、1/3程度が良いとのこと11。そして、実はそういう感じの名演奏があります。フリードリヒ・グルダの1957年12月のDecca版の録音12です。弱冠27歳での全集録音で、この曲はロンドンのキングスウェイホールで録音されました。機会があれば、ぜひお聞きください。
脚注
- 正確には、「Sonata quasi una fantasia per il Clavicembalo o Piano Forte(鍵盤付チェンバロまたはピアノ・フォルテのための幻想曲様ソナタ)」
- 初版 — http://conquest.imslp.info/files/imglnks/usimg/3/33/IMSLP51038-PMLP01458-Op.27-2.pdf
- (英訳)The whole piece must sound most delicately and without damper
- (英訳)Simply pianissimo and without dumper
- 当時のウィーンの最高級ピアノ製作者。膝レバーのみならず、より重いハンマー、キーを離した時にハンマーが跳ね返って来ないようにする機構、高音域への3本弦の導入など多くの新基軸を打ち出し、1000台ほどのピアノを制作した。
- https://www.youtube.com/watch?v=LJuNgjb2HcY
- https://www.youtube.com/watch?v=LJuNgjb2HcY
- A.Walterのピアノでも、モーツァルトが使っていたものはハンド・ストップを使っていたと言われる。なお、現存しているものは、後にA.Walterが改作して膝ペダルを導入している。
- このような機構の導入は、ダンパーが降りている状態の「ピアノ・フォルテ」と、ダンパーが上がっている状態が表す、「パンタレオン」という当時非常に人気のあった楽器〜共鳴箱付きツィター属の楽器で、弦をバチで叩いて音を出す。現在の「ツィンバロン」がこれに近い。当時はチェンバロと言えば、この様な楽器のことで、これに鍵盤を付けたものが曲の題名の中にも入っている「Klavicembalo(鍵盤付きチェンバロ)」〜を一つの筐体に入れようとしたことからはじまると考えられます。(出所)Tom Beghin: Beethoven’s “Mondschein” Sonata, Opus 27 No. 2 and the Undamped Register <https://www.youtube.com/watch?v=LJuNgjb2HcY>および筆者
- なお、ペダルは踏み変えている用に思えます。
- https://youtu.be/TRJFQZrRUrE?t=7m25s
- 吉田秀和氏おすすめの版。わたしもおすすめ。