高校一年のお正月

正月でだらだらしていて、ふと思い立って昔の日記を開いてみた。
高校一年のときの大晦日から正月にかけての日記だ。なぜ高校一年かというと、今、娘が高校一年だから。

読み返してみると…テロと隣り合わせの生活してますな。
こういう環境と、今の日本の環境を比べると…日本は平和だし、鈍ってる。
ふがいなく感じるのも、いた仕方ないところか。

1980年12月31日(水)

もう1年がたってしまった。さて、年越しそばを食べていると、午後8時45分頃、ドカンという音がした。台所の窓がふるえ、鉢がガタガタ言った。ムゼ[*1]に言わせると、モイ大統領をよく思っていないキクユ[*2]によってBomb(爆弾)がどこかへしかけられたのだろうというが、まさか。ハハハ。

紅白が今日あるのだが、アンテナ[*3]が落ちてしまっていたので買いにいった。それから、バッハの Flute Sonata Nr.2 と Nr.4 を買った。月の光(ドビッシー)もあっったが、49シル[*4]もするのでやめにした。写真屋で令子のコンサートの写真を見たが、どういう訳か焼き付けてないのがあるからやりなおし。

家ではアンテナを張った。ジャカランダに竹竿を針金でくくりつけて、その先につなぎ、もう一つの端を煙突につないだが、煙突はすごいすす。木に登ったとき、はしごが折れて、キンタマを打った。それで、屋根から恐怖でおりられなくなった。

年の瀬という感じもなにもしなくてあじけない。1月1日になってから、もう一度そばを食べ直した。あぁ、除夜の鐘が聞きたい。

1981年1月1日(木)

なんと、「ナフクホテル」が爆破されたそうだ。昨日の Bomb という音がそうだったのだ。「ナフクホテル」というのは、Norfork Hotel の John[*5] 訛り。あぁ、しかし、New Year’s Eve のパーティーに行っていなくてよかった[*6]。

1981年1月2日(金)

昨日のうちは空爆ではないかと言われていたのが否定された。また、死者は16人だったのが18人になった。Norfork Hotel を見に行ってみたが、道に入れなかった。

1981年1月3日(土)

死者14人に減る。行方不明者が発見されたため。Norfork は今日は歩きで行ってみたが、あとちょっとのところで見つかってしまい、近づけなかった。

1981年1月4日(日)

犯人は食堂の真上の部屋に泊まっていたマルタ島のパスポートを持った男らしい。他の部屋がとってあったのに、食堂の上の部屋は空いていないかと言って、その上の部屋をとった。しばらくして女が訪ねてきて出て行ったが、そのまま帰らず。飛行機でケニヤ国外へ。チェックアウトはしていない。帳場が焼けたので名前はわからない。国際警察機構が動き出した。

しかし、石造りはすごい。今日みたところ、屋根瓦がなくなっただけのように見えた。

[*1] ムゼ(mzee) 老人。ここでは、門番をしてくれていたルイヤ族(Luhya)の老人を指す。
[*2] キクユ (Kikuyu) キクユ族。ケニヤ最大の部族。ケニヤッタ大統領や、2009年段階のキバキ大統領もキクユ族。ちなみに、当時のモイ大統領は、カレンジン族(Kalenjin)の出身であった。
[*3] 短波ラジオのアンテナ。日本の放送を聞くと言ったら、そのくらいしか選択肢がなかった。
[*4] シル=シリングの略称。シリングはケニヤの通貨単位。Ksh. 当時はKsh.1=JPY30くらいだったような気がする。
[*5] Johnは、家周りのことをしてくれていた、40歳くらいの男性のお手伝いさん。ルイヤ族。
[*6] このパーティに行こうかという話をしていたのだった。危なかった。

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