偽ベートーヴェン問題に見られる5つの誤解

正直、佐村河内守という名前は私にとっては、今回の事件についての投稿がtwitterで流れてくるまで完全にノーマークであった1。いつのまにやら「現代のベートーヴェン」とか持ち上げられているなどつゆほども知らなかった。何でも高度聴覚障害者(中途失聴者)身体障害者2級にして、交響曲などを書き上げ、評論家などからも非常に高い評価を受けていたが実は違ったという話のようでなんとも香ばしい。私は単なる音楽好きの素人兼身近に聴覚障害者がいるためにその辺りにある程度詳しくなってしまったやはり素人というダブル素人なわけだが、それでもこの絡みについての世の中の誤解が香ばしすぎるのでちょっと誤解シリーズを書いてみようと思った。

  1. 作曲という概念についての誤解
  2. 新垣氏は表に出られない事情があったから佐村河内守名義にしたのだという誤解
  3. あの作曲指示書がすごいという誤解
  4. ベートーヴェンは高度難聴者だという誤解
  5. 現代音楽はわけわからんものだという誤解

の5つである。まぁ、気軽に読み流してほしい。

1. 作曲という概念についての誤解

今回の件で最初の方に流れてきたものに、例の図形で表した作曲指示書というのがある。人によっては、あれは作曲と言っても良いのではないかという人もいるようだが、もちろんそんなわけはない。あんなものは、せいぜい一つの短い旋律を提示して、それを元に曲を組み上げてもらい、その作品を、旋律を提示した人の作曲というのと同程度、あ、日本ではそれを作曲というのか(笑)。

この旋律を書いた人が作曲者で、それを音として組み上げた人は編曲家というようなおかしな区分が、そもそも大きな勘違いなのだ。本来の芸術的行為は曲を組み上げる方なのだから、いい加減、旋律を書いた人が作曲家で、それを曲にした人は編曲家というのはやめたほうが良い。こんなことを言っているから、偽ベートーヴェンの「音が降りてくる」演出とかにもなるのだろう。

私はだいぶ前から音楽ネタというシリーズでブログを書いている。基本的には似たような旋律の曲を探してきて、「似てますねぇ」とやっているが、これも、旋律重視の現在の(特に日本の)状況のおかしさを訴えるためのシリーズだ。旋律は単なる素材に過ぎない。建築にたとえて言うならば、せいぜい彫刻を施した柱といったレベルだ。これを使って壮麗な建物を作った時に、その柱の作者をその建物の作者とは言わないだろう。ところが、音楽の世界ではそういう「超絶おかしなこと」がまかり通ってしまっている。これには、商業音楽のビジネス面の話だとか、法律家が音楽がわからないだとか、いろいろな問題が絡んでいるのだと思う。

ひるがえって今回の「作曲指示書」にもとづいて曲を書くということを考えると、これは同様に建築に例えて言うならば、施主(佐村河内氏)が「こんな家にしたい」と言ったのを、建築家(新垣氏)が実際の家にしたというところだろう。もちろん作曲はこの場合新垣氏なわけなのだが、前述のような誤解が広がっているから、この「施主」を「建築家」と言っても良いのではないかというようなファンキーな意見が出てくるのだろう。

今回の件はとても良い機会だから、日本の著作権法ももう一度何を作曲と言うのか考えなおして見ると良い。そして、できれば直してほしいものである。ちなみに、日本の著作権法だと、「主題と変奏」の場合、驚くべきことに作曲者は主題を書いた人になってしまうらしい。クラシックの常識からすれば、もちろん本来の作曲家は「変奏」を書いた人であるのは言うまでもない。ちょろっと調べたところによると、イタリアの著作権法だと、明示的にこの場合の作曲者は変奏を書いた人になっているようだ。日本も見習ってせめてこの辺りは直してもらいたいものである。

2. 新垣氏は表に出られない事情があったから佐村河内守名義にしたのだという誤解

「新垣氏はどうして自分の名前で曲を発表しなかったのか?」

この疑問も多くの人が持ったようだ。佐村河内氏も新垣氏は表に出られない事情があったというようなことを言ったようだ。

だが、この疑問、ちょっとでも音楽をかじった人にはすぐに分かる極めて簡単な理由だと思う。

「あんな恥ずかしい曲、自分の名前では発表したくない」

これに尽きる。

佐村河内守名義で聞いたのは、交響曲第一番HIROSHIMAの第3楽章などごくごく一部だが、べたべたロマン派、はっきり言ってアナクロニズムだ。新垣氏も、「趣味悪いなー」とか思いながら「でも、施主がこうしたいというのだから、その制約条件の中でベストのものにしよう」という「職人仕事」だったのではないかと思う。(ただし、施主の希望を聞いて作る職人仕事としては、極めて上質な仕事だと思う。)

ちなみに、こういうアナクロニズムの曲を発表する時に他人名義で行うというのは、クラシック音楽界の伝統でもある。たとえば、クライスラー。彼は自作を、昔の作曲家の名前で発表し、それを各地で演奏し続けた。また、世に「アルビノーニ(バロック時代のイタリアの作曲家)のアダージョ」として知られている曲は、アルビノーニ作ではなくレモ・ジャゾットが1958年に書いた曲だし、「カッチーニ(バロック初期のイタリアの作曲家)のアヴェ・マリア」として知られる曲は、1970年にロシアの作曲家ヴィヴァロフが書いた曲だ。いずれの例も、まっとうな耳を持っていれば、すぐに贋作だと分かるものなのだが、クライスラーの件など、本人がバラすまで世の中はまんまと騙されたままだったようだ。(いや、多分気づいていた人はいっぱい居たのだと思うが…。)

今回の佐村河内守事件も、ちゃんと注意して見れば、おかしなところはいくらもあったようだが、やはり基本的に内部者がバラすまで表に出てこなかったのは、構図としても同じで興味深い。

ちなみに、クライスラーが自作だとバラしたのは、評論家レオポルド・シュミットがベルリンの新聞に「クライスラーの演奏は無神経だが、演奏されたヨーゼフ・ランナーの未発表曲はシューベルト作に匹敵する出来だ」と絶賛したのに対して、「自分の書いた曲がシューベルトに匹敵する分け無いだろ」と反論することによってだった2。ある意味で、今回の件にも似ている。新垣氏にすれば「あの恥ずかしい曲が、世紀の名曲ともてはやされている。なんじゃそれ。さすがにここは訂正しないとまずかろうよ。」という感じもあったのではないかと思うのだがどうだろうか。

しかし、世が変わっても、評論家というのは変わらずにどうなっっちゃってるんだろう。全然耳が無いのかな?今回もだいぶ恥ずかしい評論が出ていたようだし、不思議だ。ただまぁ、その人なりの趣味とか主義とかもあるのであろう。その違いは許容しなければならない。

そこで、そのような評論家の方々にお願いがある。そういう方々には、今回の経緯は関係なく、今後も佐村河内守名義の曲をぜひともプロモートしていただきたいものである。作者名が違っていようと、作品の価値自体には関係ないはずだからである。ここで手のひらを返したようなことをする評論家や音楽家がいたら、本当にその人の資質を疑う3

3. あの作曲指示書がすごいという誤解

事件が明るみになったとき、交響曲第1番HIROSHIMAの図形指示書が流れてきて、それについて「よく書けている」「すごい」というような意見がちらほら見られた。

(出所)Buzzap 別人作曲が報じられた佐村河内守の作曲指示書がすごいと話題に→さらに耳が聞こえる疑惑も (2014-02-06)

いろいろ意見があるだろうが、私にはどうもそうは思えない。

Youtubeなどで容易に聞くことができる佐村河内守名義の曲としては他に「吹奏楽のための小品」という曲がある。インタビューによると、こちらにはこうした指示書はなかったようだ。そして、曲としてはこちらの方がはるかに良いと思う。佐村河内守氏からの細かい発注書が存在せず、より自由度が高かったからではないだろうかと思うがどうだろう。


4. ベートーヴェンは高度難聴者だという誤解

さて、この偽ベートーヴェン、高度難聴者だそうである。だそうである、と書いたのは、どうやら詐病らしいということなので「だそうである」と書いている。伊東乾氏 ともいろいろやりとりをしたが、実際私には彼が高度難聴者だとは思えない。18年もその状態であるにしては、発音が綺麗すぎるのだ。ただ、ここではこれ以上それには突っ込まないことにする。ここでの話題は、「偽ベートーヴェン」を可能ならしめた、ベートーヴェンの聴力についてである。

ベートーヴェンが難聴で、40歳頃には全聾となったというような話は多くの人が知っていることだ。実はこの情報はどう考えても正しくない。それを理解するには、難聴についてちょっと勉強することが必要である。

難聴を表現するのによく、中度難聴とか高度難聴とかいう表現が使われる。これらは聞こえの程度を表す用語で、WHOによる定義では以下の様になっている。

【世界保健機関(WHO)による難聴の聴力による分類】

軽度 26~40dB
中度 41~55dB
やや高度 56~70dB
高度 71~90dB
非常に高度 91dB以上

(出所)難聴の種類と聴力

一方、その機序によって分類する方法もある。

伝音性難聴 外耳、中耳の障害による難聴
音が伝わりにくくなっただけなので、補聴器などで音を大きくすれば、比較的よく聞こえるようになります。 治療によって症状が改善される場合もあります。
感音性難聴 内耳、聴神経、脳の障害による難聴(老人性難聴も感音性難聴の一種です。)
音が歪んだり響いたりしていて、言葉の明瞭度が悪い。補聴器などで音を大きくして伝えるだけではうまく聞こえません。補聴器の音質や音の出し方を細かく調整する必要があります。
混合性難聴 伝音性難聴と感音性難聴の両方の原因をもつ難聴

(出所)聴覚障害の基礎知識

伝音性難聴は中度以上になることは稀で、重い難聴はほとんど感音性難聴である。この感音性難聴、単に音が聞こえにくくなるだけではない。音が歪んだりいろいろな事が起きる。ここのところが、普通の方にはなかなかわかりにくい。たまたま今日、うまいこと説明しているなというブログをみつけたので紹介しておく。

聴覚障害者の聞こえの可視化

さらに、いつ聞こえなくなったかによっても分類される。

先天的 聴覚組織の奇形や、妊娠中のウイルス感染(特に風疹)などで聴覚系統がおかされた場合
後天的 突発性疾患、薬の副作用、頭部外傷、騒音、高齢化などによって聴覚組織に損傷を受けた場合

(出所)聴覚障害の基礎知識

難聴を考える際には、この3次元マトリックスで考えることが重要なのだ。たとえば、先天的に聞こえにくい人は、聴覚言語の獲得や音楽の概念の獲得に非常に困難をきたす。経験したことが無いものを理解するのは非常に困難なのだ。

さて、準備ができたので、ベートーヴェンについて考えてみよう。彼は「40歳頃には全聾となった」と言われている。全聾というのは上記には出てきていないが、両耳の聴力が100dB以上の状態を言う(身体障害者福祉法施行規則 別表第五号)。上記だと後天的な非常に高度な難聴となる。いわゆる中途失聴者である。ところが、各種の情報を鑑みると、どうもこれは正しくなさそうなのである。

失聴後、ベートーヴェンは木の棒を口に咥えてピアノにつけて作曲したといわれる。これは骨導音の利用である。また、晩年リストの演奏を聞き、一発でファンになったとか言われる。このようなことは、非常に高度な難聴になると、基本ムリなのである。例えば骨導音を使うと聞こえるというのは、内耳の神経は無事で、そこに至る音の道がおかしくなっているので、そこまでを骨の振動でバイパスしてしまえば聞こえる、というメカニズムだ。内耳の神経がやられていたら、これは難しい。ベートーヴェンがこのようなことができたのは、伝音性難聴だったからに違いない。

実際、ものの資料によると、ベートーヴェンの耳の病気は耳硬化症だという。これは伝音性難聴の一種で、現代においては手術によってかなりの改善を見る病気である。また、伝音性なので補聴器などもかなり有効である。そして、伝音性難聴であるということは、中度難聴以上になることはあまり無い。つまり、ベートーヴェンは全聾はおろか、高度難聴ですらない。せいぜい中度難聴。ことによると、軽度難聴なのである4。ある意味、だからこそ作曲を続けられたとも言えよう。

さて、当の佐村河内氏であるが、もしも彼が「ベートーヴェンと同じくらい聞こえない」というのならば、「そうかもしれないね」とは思う。その程度ならば発音も崩れないだろうし、声掛けされたのに気付くなど、十分にあり得る。「全聾というのは正式用語で全聾と言ったのではなく、ベートーヴェンが全聾と言われているので、それに合わせた『音楽界用語』として使ったのだ」と同氏が言うならば、まぁそうなのか~という話である56る。ただし、やっぱり聴覚障害に関して誤解を招く行動なので、ぜひともやめてもらいたいことではあるが。

5. 現代音楽はわけわらんものだという誤解

これはもう何というか…。以下の伊東乾氏や江川紹子氏のコラムでも詳しく触れられているが、現代音楽は一般人には意味不明というのは、激しく誤解である。たとえば幼稚園児にシェーンベルクを聞かせれば、「いいきょくだね~」と喜んでくれるし、テレビや映画などでも、違和感なく現代音楽をみな聞いているわけだし、要は「意味不明」と思う「大人の耳」が調性音楽に汚されてしまっているだけなのである。

この辺の経緯は、Vihart氏のYoutubeの12音音楽(シェーンベルクが創始した無調音楽の技法)についてのビデオが非常にわかりやすい。公開したとたん、あっという間に100万ビュー行ったビデオである。人がいかに過去に聞いた調性音楽の奴隷になっており、それを開放するためにはというようなことをわかりやすく説明してくれている。音楽も、イラスト・アニメーションもすばらしいと思うし、英語ではあるが、ぜひご覧になっていただきたい。


おわりに

この駄文は、伊東 乾氏との間で木曜夜に twitter でやりとりしていて書こうと思ったものである。氏とのやりとりがなかったら、このようにまとめてみようという気にはならなかっただろう。氏にはこうしたきっかけをいただけたことを感謝したい。

偽ベートーヴェン問題に関してはその後氏や他の有識者の方々も非常に示唆に富んだコラムを書かれておられる。最後にそれらのリンクを紹介して、本稿を閉じることとしたい。

(改訂履歴)

  • 2014-02-12 「おわりに」に伊東乾氏の記事を1個追加。
  • 2013-02-13 「おわりに」に吉松隆氏の記事を5個追加。
  • 2013-02-13  [5][6]を追加。記事内リンクを充実。「新垣隆」をタグに追加。

脚注

  1. どこかのコンサートで一回曲を聞いて「すごい名前だな」と思った程度でしかなかった。
  2. The Times Standard 1956年5月10日号より。
  3. 2月6日のツイートでも「佐村河内守というのは、新垣隆さんの芸名ということでOK?聴覚障害だろうとそうでなかろうと別に曲の価値が変わるわけじゃないし。」と書いたが、ここで評価を変える人は、本当に曲の内容ではなく、曲が提示された「ストーリー」で評価していたことになる。これは、音楽評論家としてはあるまじき行為である。実際問題、クライスラーやヴィヴァロフの作品は、音楽史的にも芸術の地平線を切り拓くという意味でも無価値でもその後も佳作として残っており、20世紀の作品としては例外的に数多く演奏されている。それはそれで良いのである。実際わたしは後述の「吹奏楽のための小品」など結構好きであるしもっと演奏されて良いと思っている。(2/13追記)
  4. 軽度と言ったって、聞こえの程度は通常の人に比べてものすごくわずかなのだ。普通の感覚では、重い難聴に思えるだろうし、実際大変なことなのだ。特に補聴器などがなかったベートーヴェンの時代には、全く耳が聞こえないと表現されても不思議でない。
  5. もっとも、それだと2級の手帳を持っている(=高度難聴認定されている)ことの説明が付かないが。
  6. 2/12の読売新聞の記事によると、3年くらい前から聞こえるようになってきたんだそうである。すごいな。最高度難聴から自力で神経再生して回復なんて、ほとんど世界で初めての事例ではないか?ぜひ医学の進歩に協力していただきたい orz。しかし、この期に及んで、高度難聴が自然治癒する「夢」を人に見させるなど、佐村河内氏はどこまで嘘の上塗りをして、聴覚障害に関する誤解を広げる気か。まさに言語道断許しがたい。(2/13追記)

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