短歌のフラット化について

短歌ヴァーサスに、短歌のフラット化の話が出ていた。わたしは父の死から15年ほど短歌から離れていたのだが、その間に短歌を取り巻く環境は激変して、今や綿密に構造を構築した短歌は流行らなくなってしまったようだ。

私は、詩というものは、語るべきことがあって、なおかつそれを凝縮することによって一瞬で伝えることができる「密度」にこそ意味があると思っている。そうでなければ、散文を使えばよい。感覚の世界で、時間を使ってもよいのなら音楽を使えばよい。詩には詩にしかできない領域があると思っているので、フラットな「平易」なだけの短歌には正直違和感を覚える。

別に、一見平易に見える歌が一概に悪いといっているのではない。一見平易な中に、恐ろしく深いものを込めるのももちろん可能である。むしろそれこそがあるべき姿と言ってもよい。しかし、それは容易ではない。ともすると簡単に愚にもつかぬものに落ちてしまう。そこには「天才」が必要だ。

振り返ってみると、短歌ヴァーサスで取り上げられている歌人たちの多くは私よりもはるかに若くなってしまっている。じじいの独り言かもしれないが、遅れてきた浦島太郎として、少しづつでも構築的な歌を詠んでゆきたいと思う。

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  1. 「わかりやすさ」をもとめ、一発でどれだけ多くの人に分かってもらえるかを競う「フラット化」と、「わかりやすさ」は敢えて切り捨て、どれだけ掘り下げた世界を構築できるかの「ディープ化」と言っても良いだろう。歴史的には、前者がポピュラー志向、後者が芸術志向であるとも言える。時間の審判を受けて残るのは、概ね後者である。逆に、後者は同時代からは概ね拒否される運命にもあるといえる。モーツァルトもベートーベンも、ある時「こんなんじゃ、いかん」とばかりに芸術的に優れた作品を書き始め(現在われわれが名作としているのはこういう作品だ)、赤貧洗うがごとしの生活となっていったのであった。

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