死を意識するということ 〜戦後60年、阪神淡路大震災10年、中越大地震、インド洋大津波に想う〜

戦後60年がたち、戦争を知らない人々が人口の大部分を占めるようになった。平和な日本では、普通に暮らしている限り、死を意識するということは、特に若年層では少なくなっていることであろう。

幸か不幸か、私は今までに死を意識したことが何度かある。最初は高2のとき、ケニヤでクーデター未遂が起きたときだ。近くで機関銃の音が聞こえるし、砲撃らしき音も聞こえる。実際、家からちょっと離れたところで50人ほど殺されたらしいし、家族の友人は、家にロケット弾を落とされて亡くなった。

次は大学2年の時に、癌を患ったときだ。自覚症状が出てから半年放っておいてあった。まさか癌とは思っていなかったからだ。20年前のことだ。この年齢でこの状況だと、普通は手遅れである。頭の中では、死は当然として、あとは何ヶ月生きられるか、その間に自分は何が出来るか、という問題であった。まだ若く、失うものも無かったせいか、不思議と心は冷静で、澄み切った気持ちになれた。詩が溢れてきた。

幸い、非常に珍しいことに、これだけ時間がたっていても転移が無く、私は癌から生還した。

次に一瞬死を意識したのはその6年後、長女が生まれて1ヶ月もたたない時だった。背中にしこりが出来た。カナダでのことだ。一応再発でないことは確かめたいと思った。ダメな場合は、すぐに日本に帰って、通いなれた国立ガンセンターに行くつもりだった。中途半端に切ったりしたら命取りだということを知っていたからだ。診断は脂肪腫ということで、痛みがあるので取りましょうということになった。日帰りで出来るそうだったのでお願いした。

手術は全身麻酔だ。麻酔薬が入れられると、呼吸が苦しくなり、咳が猛烈に出た。これで普通なのかと、聞いたのを最後に意識が無くなった。

目が覚めると、妻がベッドの傍らで青い顔をして立っていた。英語の説明でよく分からないが、予想外のことがあったので、今日とにかく家に帰ることは出来ないと言われたという。まだ朦朧とした頭で、「あ、やっちまったか」と思った。ここで切ってはいけなかったのだと。しばらくして担当医が来て説明した。脂肪腫では無かったと。予想とは違い、ヘマンギオマで、予定よりも手術に時間がかかったし、止血がうまく行っていないので、一晩入院になるということだった。ヘマンギオマといわれてもなんだか分からない。友人の医者に電話をしたところ、血管腫で良性とのことだった。ほっとした。

次にまずいな、と思ったのは2年前の秋のことだ。8月くらいから体調が思わしくなく、会社の近くの病院に行った。リンパ節が腫れていた。抗生物質を飲めば直るだろうくらいの気持ちだった。ところが、医者は、「どこか希望する病院はありますか?」と聞いた。「えっ?」「いや、ここではこれ以上のことはできません。もっと大きなところの血液内科に行く必要があります。」嫌な予感がした。私は以前からガンのときには国立がんセンターに行くと決めていたが、私にとって、がんセンターの血液内科というのは死を意味していた。以前がんセンターに入院していたとき、父の短歌の友人だった内科医長から話を聞いていた。「外科は最初からがんセンターに来ていれば8割は助かる。血液は、そういう有効な手が無い。辛い。」と。とっさに、私は「別に、ありません。」と答えていた。死を直視することから逃げようとしている自分が居た。

病院は順天堂病院になった。さまざまな検査が始まった。悪性リンパ腫の疑いだった。家族には何も言わなかった。自分でもいろいろ調べた。いろいろタイプがあるらしかった。急性のものは、治療はきついが予後は良いようだった。慢性のものは、経過を観察しながら死を待つようだった。ただし、少なくとも数年は余裕があるようだった。病状は急性には進んでいなかった。疑いが晴れることを祈った。

しかし、内科的検査では疑いは晴れなかった。手術をして、リンパ節を摘出して検査することになった。外科に回った。担当医に「悪性リンパ腫でない可能性としては、どんなものがあるんですか?」と聞いた。医者は答えた。「100%悪性リンパ腫です。この手術は、どのタイプの悪性リンパ腫かを確定して、治療の方針を立てるためのものです。」

手術は11月の初めと決まった。まだ家族には言っていなかった。妻と旅行に出かけることにした。昔から行きたかった、ドイツのババリア地方のルートヴィヒII世が建てた城をめぐった。それまでは自分はカメラマン役で、自分の写真というのはあまり無かった。今回の旅行は、なるべく自分の写真を撮ってもらうようにした。

旅行から戻ってきて、妻に手術のことを告げた。涙が溢れてきて止まらなかった。

無事手術は終わり、2週間後、手術の結果を聞きに言った。100%と告げた医者が言った。「珍しいこともあるもんですねぇ。詳しくは血液内科から話があると思いますが、悪いもんじゃありません。」ほっとした。血液内科の話だと、原因は不明だが、とにかく悪性リンパ腫ではないという。しかも、その頃には、取り除いたリンパ節以外の腫れも引いて来ていたので、無罪放免ということになった。

それから一年以上がたった。今、私は平和に毎日を過ごしている。しかし、おそらくそちらの方が異常なのだ。昨年は天災のオンパレードだった。今も中越地震やインド洋大津波の被害者は苦しんでいる。明後日、2005年1月17日は、阪神淡路大震災から10年目だ。今日、一日一日の平和を大切に生きてゆきたいと思う。

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